韓国紙・文化日報は6日、昨年7月に韓国に亡命したテ・ヨンホ元駐英北朝鮮公使のインタビューを掲載した。テ氏はその中で、北朝鮮国内での反体制の動きについて次のように明かしている。
「私が聞いた最後の反体制運動は、1988年初めにあった。金日成総合大学で大規模な反体制組織が摘発された。具体的な人数はわからないが、金日成総合大学が完全にひっくり返った。学生の管理のために、国家安全保衛部(現国家保衛省)から人員が出てきたほどだった。大々的な粛清があり、加担した学生はすべて銃殺された。私の親しい友人もそのときに死んだ」
「金正恩暗殺」の動きも?
筆者は寡聞にして、このエピソードを知らない。韓国の知人らに聞いても、同様の答えだった。
世界最悪の監視国家と言われる北朝鮮においても、過去に反体制の動きがあったのは事実だ。1993年、ソ連のフルンゼ軍事大学留学組の同窓会が「血の粛清」に遭った事件や、1995年の6軍団クーデター未遂がそうだ。
(参考記事:同窓会を襲った「血の粛清」…北朝鮮の「フルンゼ軍事大学留学組」事件)人気記事:金正恩氏が反応「過激アンダーウェア」の美女モデル写真
また、厳密には反体制の動きとは言えないが、1995年には当局の横暴に抗議した労働者たちが、ことごとく戦車に轢き殺される虐殺事件も起きている。
「ベルリンの壁」崩壊以前に
このような動きが1990年代に集中して起きたのは、北朝鮮がこの時期、数十万から一説に100万人単位の餓死者が出たとされる、「苦難の行軍」と呼ばれる大飢饉のただ中にあったからだ。国民の悲劇を顧みない国家に対し、「座して死を待つくらいなら」との思いが少なくない人々の中で芽生えたのかもしれない。
その後は当局の徹底的な弾圧・監視もあり、大規模な動きは出ていない模様だ。それでも、「怪しい」事例ならば時折みられる。一昨年10月、北朝鮮東部の葛麻(カルマ)飛行場で、金正恩党委員長の視察前日に大量の爆薬が見つかったと米政府系のラジオ・フリー・アジアが報じている。また、2004年春に起きた龍川駅爆発事故も謎の多い出来事だった。中国を訪問した故金正日総書記が特別列車で帰る帰路上で、謎の大爆発が起きたのだ。この出来事はいまもって、「暗殺計画」の可能性をはらむミステリーとして語られている。
(参考記事:なぜ最高指導者の近くに大量の爆発物が…北朝鮮「暗殺未遂説」のミステリー)それにしても、テ氏の語った「金日成総合大学粛清事件」は気になる情報だ。1988年は大飢饉が起きる前だし、旧ソ連と東欧社会主義圏では変革が始まっていたものの、ベルリンの壁の崩壊やルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻射殺は翌年の出来事だ。テ氏の語った情報が事実なら、北朝鮮最高のエリート子弟が通う金日成総合大学の中に、東西冷戦終結の流れに呼応しようとしたグループが育っていた可能性さえ示唆するものと言える。
人気記事:金正恩氏が反応「過激アンダーウェア」の美女モデル写真ただ、文化日報のインタビューは「苦難の行軍」を1980年代とするなど、明らかな間違いが含まれている。聞き手はベテランの政治部長のようだが、記者が記事化する段階で錯誤が混じった可能性もある。
いずれにしても、検証の待たれる情報ではある。
(参考記事:抗議する労働者を戦車で轢殺…北朝鮮「黄海製鉄所の虐殺」)