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血の粛清「深化組事件」の真実を語る

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1950年代の「8月宗派事件」と並び北朝鮮最大の大粛清と言われているのが、1990年代後半に起きた「深化組事件」だ。これに巻き込まれた高級幹部など2万5000人が処刑または追放された。

社会安全部(現人民保安部の)監察課に勤めていた脱北者、パク・ムニル氏がその実情についてNK知識人連帯の機関紙『北側の村』の最新号で詳しく語った。パク氏は「金正日は政治殺人劇を操った事実を隠して、部下たちの盲目的な服従で権力を守った。歴史は金正日の罪悪を忘れておらず、金正日こそ裁きにかけなければならない最大の犯罪者」と述べた。

NK知識人連帯の機関紙「北側の村」

深化組とは、社会安全部の要員8000人が送り込まれ3年間に渡り「スパイを探し出す」活動を行った機関だ。北朝鮮版マッカーシー事件であり、金正日が金日成の勢力を追い出すためのスパイ操作事件という見方が主流である。その弊害が激しくなったため、金正日は深化組の幹部を処刑して組織を解散させた。

パク氏は寄稿文で、「深化組事件に直接係わった唯一の脱北者としての良心宣言でもある」と述べている。

パク氏は「深化組事件を説明するためには、金日成が死亡した時期までさかのぼらなければならない。党と首領に対する忠誠心を云々し、人民の財産を収奪した金正日は、『苦難の行軍』以後世論の支持を失い、体制滅亡の恐怖を感じた」と述べている。

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パク氏がNK知識人連帯の機関紙『北側の村』に寄稿した深化組についての文章は、非常に具体的でリアルなものであり、事件の証拠資料として価値が高いと判断される。この文章に基づいて深化組事件を振り返ってみることにする。

まずは事件の背景から説明する。

1974年に朝鮮労働党中央委員会の決定により金日成の後継者に公認された金正日。しかし、その権力基盤は非常に弱いものだった。

腹違いの弟、金平日(キム・ピョンイル)は金日成と似ているうえに、ロシア生まれの金正日とは違い、北朝鮮国内で生まれた。それだけでも「白頭の血統」を受け継ぐのは金平日がふさわしいと思われた。

さらに金正日に対する軍の支持も弱かった。金平日は自ら軍に入隊し、全国の大学生にも軍への入隊を呼びかけるなどして軍における信頼度が非常に高かった。一方の金正日は軍関連のいかなる経歴も持っていなかった。

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1980年代に入って金正日は「首領様(金日成)の健康と余生のために」という名目で金日成を権力から徐々に遠ざけ、自らが事実上の指導者の立場に立った。しかし、それにより金正日の指導力に問題があることが露呈してしまった。

金日成は部下の細かい意見にも耳を傾ける度量があったが、金正日は人の言うことに耳を貸さず、自分の思い通りに何でも進めようとした。危機感を覚えた幹部たちは命の危険を顧みず金日成に報告した。

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報告を聞いた金日成は激怒して「これからすべての重要案件は党の指導部には持っていかず私のところに持ってこい」と指示を下した。それを知った金正日は、金日成に報告した幹部に恨みを抱いて、些細なことで解任してしまった。

金日成は金正日と呼びつけて「党の総秘書として、党組織秘書に警告する」と厳しく叱責した。金正日は父金日成に指導者の資格がないとイエローカードをつきつけられた形だ。

やがて金日成は死去した。そのころから「苦難の行軍」と呼ばれる未曾有の食糧難が発生した。食糧配給システムは崩壊して各地で数十万人に及ぶ餓死者が発生し、人心は金正日の元から完全に離れてしまった。

金正日は、自らの失策の責任をなすりつける人間を探していた。そこで、横領した肥料30トンを親戚に流したという疑いで逮捕され、社会安全部の第7教化所に収監されていた徐寛熙(ソ・グァンヒ)中央党農業書記を利用することにした。

金正日は、「徐寛熙を南朝鮮のスパイとして葬ることを極秘に指示せよ」という命令を下した。張成沢は中央党組職部のリ・チョル社会安全部担当責任指導員と、社会安全部のチェ・ムンドク政治局長と共に計画を立てた。

徐寛熙は「アメリカと南朝鮮のスパイであり、指図を受けて人民を飢えさせるために、体系的に農業を台無しにした」という罪をなすりつけられ、平壌市民の前でファン・グムスクと一緒に銃殺された。

このファン・グムスク、金日成から熱心な管理委員長と高く評価されていたが、『国家財産略奪罪』で社会安全部予審局に収監された。通常、間違いを犯した幹部は、社会安全部の「増産労働鍛錬隊」や「教化所」に送られて、「革命化」の処分を経て復帰させる前例が多かったため、銃殺刑は異例のことだった。

金正日は、徐寛熙がスパイだということを人民に広く知らしめるために、映画『民族と運命』の続編として『昨日、今日そして明日』を製作した。徐寛熙が党の主体農法のために献身した科学者の論文を抹殺して、人民の峻厳な審判を受けるというストーリーである。

過去の国家安全保衛部や先軍政治以後新しい勢力として登場した人民武力部、保衛司令部が力を持ち、司法機関が力を失っていた。徐寛熙スパイ事件をきっかけに、社会安全部は最高の権力機関として浮上することになる。

金正日はその後、社会安全部に深化組を作り、金日成の側近を排除して絶対権力を掌握するための布石を打った。

「深化組事件」は2段階に分けて行われた。第1段階は1996年から1998年まで、第2段階は1998年から2000年までだ。

ファン・ユンモ社会安全参謀長、キム・ウンチョル住民副部長、リ・チョル担当指導員、アン・ヨングク総務部部長など社会安全部の幹部15人は、スパイを掃討するという名目で住民文書(成分や賞罰などの記録)に空白がある者を調査し始めた。

死んだ人も例外ではなかった。平壌の愛国烈士陵に埋葬されたキム・マングム中央農業委員会委員長は、住民文書の調査の過程と証言者によりスパイ扱いされた。遺体は掘り起こされ、頭に銃弾が撃ち込まれた。遺体が愛国烈士陵に戻されたのは、後に深化組のでっち上げが判明してからのことだ。

「深化組事件」は高級幹部の家族も震え上がらせた。

パク氏は「その家の祖父の住民登録文件に空白があるという理由でだけで連行されて、孫のような歳の安全員に拷問されて、偽りの自白をさせられた。家族は耀徳の収容所送りになった。まさに生き地獄だった」と当時を振り返った。

また、平壌市のリョンソン区域に住む70歳以上の老人たちは、ことごとく西北青年団(朝鮮戦争時の反共団体)の元団員だという疑いをかけられ、拷問の末に嘘の自白をさせられて銃殺された。

これは深化組の初期に区域の社会安全部住民登録課の職員が、区域行政機関委員長の住民登録文献に委員長が元スパイだという記録があるのを見つけて通報したが、この記録が間違いだったことがわかり逆に処罰された。しかし、後に行政委員長は改めてスパイ容疑をかけられて銃殺された。これが発端となり地域の老人全員が疑われたのだ。

第1段階で処刑された人は3000人以上で、その家族や縁故者1万人以上が耀徳の収容所送りになった。あまりにも人数が多くて収容所の建物を建て増したほどだった。

金正日は「深化組事件」で功績を立てたチェ・ムンドクとユン・ゲス、チェ・ドクソンに「朝鮮民主主義人民共和国英雄称号」を与えた。

深化組にいた張成沢とチェ・ムンドクは、第2段階の調査対象にムン・ソンスル中央党本部党責任秘書とソ・ユンソク元平壌市党責任書記を陥れた。これは張成沢とチェ・ムンドクの個人的な恨みによるものだ。

金日成の唯一思想体制と金正日の権力世襲の責任者だったムン・ソンスルは、金正日の親戚を監視した。そして、張成沢の女好きとカネまみれの生活を金日成に報告した。

ソ・ユンソクは、平壌市安全局長を務めたチェ・ムンドクが政治学習をサボっていると報告した。金正日はチェ・ムンドクを降格させて、咸興(ハムン)に左遷した。

ムン・ソンスルとソ・ユンソクは、一般人同様に電気拷問、氷拷問、そして手と足の爪を抜く拷問を受けた。ムン・ソンスルは下剤を飲まさせた上で3日間水一滴を与えないという拷問を受けた末に、留置場の壁に頭を打ち付けて自殺、ソ・ユンソクは精神を病んでしまった。

ムン・ソンスルの自殺は、チェ・ムンドクにとって最大のミスとなった。

ムン・ソンスルが自殺したという報告を受けた金正日は「中央党組織指導部4科」を社会安全部に派遣した。深化組で中世さながらの拷問や脅しが行われていたことを知った金正日は、チェ・ムンドクが単独で自らの名前を使ったものとして事件を整理した。

金正日は、チェ・ムンドク、ユン・ゲス、チェ・ドクソンに与えた「共和国英雄称号」を剥奪し、リ・チョル担当責任指導員、社会安全部参謀長、住民登録局長、リョンソン区域捜査課長など15人の深化組の責任者を「反革命的な権力野心家である」という理由で銃殺刑に処した。

第2段階では、4人の大臣クラスの高級幹部を含めて全国的に2000人が処刑され、1万人に及ぶ家族と親戚が収容所送りになった。

その後、金正日は人民の恨みをなだめるために社会安全部の名前を人民保安部に変えた。

パク氏によると、2万5000人に及ぶ被害者の4割が自殺したり死んだりした。金正日は、平壌の4‣25文化会館で犠牲者と家族を慰める行事を行ったが、意図とは異なり、金正日を告発する大糾弾大会となった。

「深化組事件」が集結してから5年経った2005年4月、北朝鮮は「党幹部学習班」でチェ・ムンドクについて改めて教育を行った。耀徳政治犯収容所に収監されている彼の告白資料を見せて「党と政府を覆すクーデターを起こすために深化組を作った」との説明がなされたという。