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「男たちは私を拷問し、ペンチで無理やり歯を抜いた」脱北女性が証言

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デイリーNKジャパン編集部は3月、北朝鮮の政治犯収容所で22年に及ぶ時を過ごした末、韓国へと脱出した女性、パク・クモクさん(30)のインタビューを行った。その内容を紹介する。今回は2回目。

収容所は北朝鮮の正式名称では「管理所」と呼ばれ、現在、5か所で運営されていることが確認されている。そのうち4か所は情報機関と秘密警察を兼ね、住民統制の先頭に立つ国家保衛省(旧国家安全保衛部)が運営しているが、パクさんが収容されていた18号管理所だけが異なり、国家保安省(警察庁)の管轄となっている。

このため、他の収容所とは異なるシステムで運営されており、これがパクさんに脱出の機会を与えることになった。

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18号管理所の独特な制度に、収容者を「移住民」と「解除民」に分ける仕組みがある。

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移住民は政治犯として(でっち上げられ)収容されている人物で、いわば「罪人」として扱われる。

一方の解除民は元移住民、つまり国から罪を許された人々だ。多くは「政治犯」本人ではなく、連座制により管理所に強制的に収容された「政治犯」の親類である。

解除民と移住民とでは、移住民の割合が多い。パクさんが学校に通っていた1990年代も、ひとクラス42人のうち、解除民の子供は10人程度に過ぎなかったという。

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そして解除民になると、収容所の外に「合法的」に出られるようになる。

収容所の外に出るには収容所内の出来事を一切しゃべらないことを誓約し、担当する幹部にタバコなどのワイロも渡さなければならなかったが「解除民は外の世界に出ては、古着などの品物を仕入れて収容所内の市場で売っていた」とパクさんは語る。

このため、解除民の中には比較的裕福な家庭もあった。

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移住民と解除民の住む空間は特に区別されていなかったが、97年にパクさんが住んでいた「ハンリョン村」は幹部や移住民が多く住む「スアン村」と鉄条網で区分けされ、行き来が困難になった。パクさんはさらに「2004年には、移住民と解除民の行き来が完全に禁止された」と明かす。

パクさんと母も2003年に「解除」された。パクさんは当時の様子を「あまりにも嬉しくて、村中を回って『解除された!』とはしゃぎました」と振り返る。解除民になると身分証の血液型欄の色が変わる。移住民は黒、解除民は赤だ。それだけでうれしかった。

その後もパクさんは18号収容所の中に住み続けた。0歳で収容されたパクさんには他に行くところが無かったし、幹部に掴ませるワイロも無かったため、外の世界に出られなかったというのが本当のところだ。収容所で幼年期を送った者にとっては、収容所がふるさとなのだ。

だが、解除民や母の口から聞いた「外の世界」に対する憧れは強く、パクさんは2007年に脱出を決意する。

地盤の柔らかい場所を調べ、管理所を囲む鉄条網の下に少しずつ穴を掘り進め、はじめて外の世界に出たのだった。

外の世界での唯一の当ては、母が以前教えてくれた親類の名前だ。200キロ以上離れた清津(チョンジン)市まで名前だけを知る親戚に会いに、数日かけて歩いていった。脱出は母にさえ知らせなかった。

紆余曲折はあったが、無事に親戚に会うことができ、歓待された。栄養不足で悪かった顔色もみるみるうちに良くなり、穴の開いた靴、ツギハギだらけの服もすべて新しいモノに変わった。

しかしあまり長居することはできず、「それまで見たこともなかった、きれいな服や食料品」など大量の贈り物をたずさえ、40日ぶりに18号収容所に戻ってきた。

だが、そんなパクさんを待っていたのは、非情な仕打ちだった。

娘が死んだものだと思っていた母が嬉しさのあまり、収容所中に娘との再会を触れ回ったために「保衛部(秘密警察)の耳に入り、母がひどい暴力を振るわれた」というのだ。

パクさんにもすぐに保衛部に捕まった。いくら解除民であるとはいえ、無断で外出したパクさんは重罪を免れない。数年前、解除民であったパクさんの姉も無断で外出したことがあった。

当時、わずか数日の外出だったにも関わらず、姉は北倉から遠くない順川で逮捕され18号収容所に送還されてきた。そして収容所内にある「無報酬教化所」と呼ばれる強制労働キャンプに送られ、半死半生になるまで働かされたのだった。

それを知るパクさんは、誰にも行く先を告げずに旅立ったのだが、こうなってはどうしようもない。保衛部員たちはいきり立ってパクさんに激しい拷問を加えた。

固いコンクリートの床の上に正座させ、その上に屈強な男性が立つのは序の口で、その態勢のまま、パクさんを殴打した。思わず倒れるとさらに足蹴にするばかりか「この野郎」と言ってペンチで歯を抜きにかかってきた。

「歯が抜ける前に折れた」(パクさん)とはいえ、このままでは姉と同じ無報酬教化所に送られ、死ぬまで働かされることは目に見えている。

そこに母が現れ、パクさんが清津から持ち帰ってきた贈り物をすべて保衛部員にワイロとして差し出した。それでようやく、無報酬労働1年で済まされたのだった。

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収容所が世界のすべてだったパクさんにとって、「外の世界」はまさに新天地だった。モノがあふれ、商売もでき、自由があるように思えたのだった。実際には自由が厳しく制限されているのだが、収容所がいかに劣悪な環境であるかの反証と言えるだろう。

もともと好奇心の強かったパクさんは、無報酬労働期間中に、収容所職員と交渉を始めた。「商売をしてお金を稼がせてあげるから、外出させてください」。パク氏の親戚が裕福であることを知る収容所の幹部は納得し、パク氏はふたたび外の世界に出られるようになった。

その後、パク氏は手当たり次第に商売を行った。わずかな利ザヤのために重い穀物を運ぶ仕事から、個人経営の金鉱山まで手を出したことのない仕事が思い浮かばないくらいだ。外で働いては18号収容所に戻り、収容所幹部にはワイロを、母には生活費を渡す生活が続いた。

だが次第に景気が悪くなり。生活を維持することが難しくなってきた。そんな時、国境沿いの両江道(リャンガンド)恵山(ヘサン)市で脱北ブローカーと偶然出会った。パクさんのみすぼらしい姿を見たブローカーはすぐに脱北を勧めた。

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パクさんは18号収容所に戻り、母に「脱北」の意思を伝えた。母は涙ぐみながら「行きなさい」と背中を押してくれたという。そしてパクさんは青春時代を過ごした18号収容所を後にする。2009年9月のことだった。(続く)