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金正恩と大阪を結ぶ奇しき血脈(2)偶像化に立ちはだかる実母「高ヨンヒ」

白頭の血統に立ちはだかる「鶴橋オモニム」

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金正恩の偶像化、そして金日成を始祖とする金氏王朝の確立にむけて、「オモニム(お母様)伝説」の創出を通じた高ヨンヒの偶像化は避けられない。

記録映画の回収騒動

しかし、在日朝鮮人という彼女の出自が最大のネックになるようだ。こうした苦しい事情からか、金正恩が最高指導者になって以後、北朝鮮の公式メディアが、高ヨンヒについて言及したのは、2012年1月8日(金正恩の誕生日)と同年2月13日の二回のみ。

それも、実名や経歴については一切言及せず「母親」「平壌オモニム(お母様)」という敬称で呼ばれた。もちろん高ヨンヒは、平壌が故郷ではない。あえて言うなら「大阪オモニム」もしくは「鶴橋オモニム」がふさわしい。

また、同年には高ヨンヒ偶像化の「記録映画」が、朝鮮労働党幹部向けに配布されたが、後になって回収される騒ぎがあった。金正恩の実母「高ヨンヒ」の存在が一般住民にまで知れ渡り、「不都合な真実」が広まることを北朝鮮当局が恐れたのだ。いわば地雷を踏んだようなものだ。

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【参考記事】北朝鮮、高ヨンヒ記録映画の回収騒動…住民の間でデマの発生を憂慮

回収騒ぎ以後、高ヨンヒに関する話は一切出て来ない。しかし、昨年6月に中朝国境を取材で訪れた筆者が、数人の北朝鮮人に高ヨンヒのことを聞いてみたところ、皆が「元在日朝鮮人帰国者」であることを知っていた。

高ヨンヒが既に2004年に死亡しているにも関わらず、2012年に偶像化をはじめようとした正確な理由は不明だ。あくまでも推測だが、筆者は1952年生まれの彼女が存命だったら、還暦を迎えていたからだと見ている。

「鶴橋オモニム」こと、高ヨンヒの存在を公にできない理由は、元在日朝鮮人という出自だけでなく、彼女の父親の経歴にもあった。ちなみに高ヨンヒの父親は一時期、プロレスラーの高太文と言われていたが、これは誤報だ。では、高ヨンヒの父、そして金正恩の外祖父の高ギョンテクは、どのような人物で、どういった経歴を辿ったのだろうか。

日本の軍需工場で働いた正恩氏の外祖父

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高ギョンテクの足跡、そして高ヨンヒの正体を知る大きな手がかりになったのが、北朝鮮が発刊していたグラフ誌「朝鮮画報(1972年12月号)」だ。

北朝鮮で在日朝鮮人帰国者たちが、幸せに暮らしていることを紹介する「帰国者だより」というコーナーに高ギョンテク自身が手記を寄せていた。そのなかに気になるくだりがある。

朝鮮画報1972年12月号
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「1929年のある日、わたしは愛する父母や兄弟と別れて小舟に身をまかせ、玄界灘を渡り日本へやって来たのである。私は大阪についたその日から、民族的蔑みをうけながら、日本人の経営する「広田裁縫所」で働いた。」

明確には書かれていないが、29年の来日ということから推察すると、「強制連行」ではなく、当時は一般的だった済州島からの出稼ぎと思われる。そして、大阪の「広田裁縫所」を調べたところ、正式名称は「廣田縫工所」であることが判明。既に45年の空襲で焼失したが、幸い経営者に近い人物が存命であったため、当時の話を聞くことが出来た。

そこから浮かび上がってきたのは、まさに北朝鮮が隠さなければならない高ギョンテク最大の「汚点」だった。

「設立当初は、民間の裁縫工場でカッターシャツなどをつくっていました。朝鮮半島から来た従業員もたくさんいましたよ。朝鮮人従業員も一緒に仲良く奈良へ遊びに行ったこともあります。チマ・チョゴリを着た女性達と楽しそうに記念写真も撮影しました。1938年頃に、陸軍管理となり軍需被服工場になります。それからは軍服や天幕(軍用テント)をつくっていました」(廣田裁工所の関係者)

直視できない経歴

高ギョンテクは、陸軍管理の軍需工場の労働者——つまり、「日本軍協力者の一人」だったのだ。これは北朝鮮の尺度からすると「親日派」となり、明らかな「汚点」だ。しかも皮肉なことに、その「汚点」は北朝鮮の公式メディアによって明かされていたのである。

朝鮮半島が日本の統治下にあり、第二次世界大戦中であった当時の時代背景からすれば、多くの朝鮮人が軍関連の仕事に就いており、そのこと自体はなんら責められるべきものではない。

しかし、これが日本帝国主義と闘った「抗日パルチザン」の血統、すなわち「白頭の血統」を重んじる金正恩の外祖父となれば話は違ってくる。

北朝鮮は「白頭の血統」を強調しながら、金正恩が国家を導く正統性を主張している。しかし、彼には元在日朝鮮人帰国者であり、日本軍協力者の血が流れているーー北朝鮮にとって高ギョンテクの経歴と存在は、孫の代になっても直視したくない忌むべきものなのかもしれない。

意外な帰国理由

さらに、高ギョンテクの帰国理由にも極めて私的で厄介な理由が隠されていた。日本政府の公式記録である1962年の帰国者名簿には、高ヨンヒ(当時の名前は高姫勲)を含む高ギョンテク一家の記録が残っていた。

60年代初頭といえば、帰国運動が真っ盛りだった時期だ。高ギョンテクも、貧しい日本の生活から逃れ、社会主義祖国への希望を抱いて新天地・北朝鮮へ帰国したのかと思いきや、真相は意外な理由だった。

【法務省管警第●●●号(1962.10.13) 第99次帰還船乗船予定 被退去強制者の護送について高景沢(1913年8月14日生まれ)退去強制】

高ギョンテクを知る当時の関係者の話によると、彼は「密航船」を運営していたが、それが発覚して逮捕される。そして、違法な金儲けを行った犯で退去強制の命を受けた。しかし、それだけでは終わらない。

日本への「凱旋帰国」

彼には、正妻のほか4人の愛人がおり、十数人もの子供がいた。この複雑な女性関係に悩んだ高ギョンテクは、女性関係を精算するために北朝鮮への帰国を選び、最も若い高ヨンヒの実母(李孟仁)と、彼女との間にできた3人兄妹を連れて北朝鮮へ発った。

時は今から53年前、1962年10月18日だった。帰国後、高ギョンテクは、北朝鮮でも最低ランクと言われる咸鏡北道ミョンガンの化学工場の労働者として勤務することになる。

しかし、娘・高ヨンヒが万寿台芸術団に踊り子として入団し、金正日に見初められことをきっかけに、父娘の人生は大きく変わっていく。

そして、高ギョンテクが朝鮮画報に手記を寄せた翌年1973年、高ヨンヒは万寿台歌劇団のいくつかの演目の主役に抜擢され、日本に「凱旋帰国」を果たすのだ。(つづく/敬称略)

【連載】金正恩と大阪を結ぶ奇しき血脈(3)日本への「凱旋」と「国母」の夢