北朝鮮の歴史に、「8月宗派事件」として知られる出来事がある。事件は、今から50年前の1956年8月30日から31日にかけて行われた朝鮮労働党中央委員会全員会議で幕を開けた。
この席上、抗日パルチザン出身勢力を率いて独裁権力を手中にしつつあった金日成氏――金正恩党委員長の祖父――は、ライバルである延安(中国)派とソ連派の党幹部たちから深刻な政治的挑戦を受けた。彼らは金日成個人崇拝や、重工業偏重の政策が国民の生活を苦しめている点について鋭く批判したのだ。
最終的に、ライバルたちは敗北し、国外逃亡の末に客死。国に残された妻と幼い子供たちは金日成氏により処刑された。しかし彼にとっても、中国とソ連からの介入をかわしながら手にした、薄氷の上での「勝利」だった。
相次ぐ処刑
こうした事件は、金正日氏の登場後も繰り返されている。北朝鮮は、小国である。独裁者は絶対的な権力を握りながらも、外部からの圧力に敏感にならざるを得ない。もし、体制内に周辺大国と結託した「獅子身中の虫」がいれば、内側から権力を横取りされる恐れもある。
人気記事:金正恩氏が反応「過激アンダーウェア」の美女モデル写真小国の独裁権力は、何もせずに維持できるものではないのだ。
父の死を受け、帝王学すらろくに学ばず権力を受け継いだ正恩氏が、そのことに不安を覚えなかったはずはない。カリスマに溢れていた祖父ですら、ライバルからの挑戦を全力で叩き潰さねばならなかったのだ。
叔父を反逆罪で処刑
そこで金正恩氏は、祖父から続く悪しき粛清政治で体制固めをはかる。まず、実質的なナンバー2である叔父・張成沢(チャン・ソンテク)氏を反逆罪で処刑。金正恩体制は張氏の後見の下、集団指導体制になると分析していた北朝鮮専門家たち(そしておそらくは国内の有力幹部たちも)は衝撃を受けた。
これを機に、張氏と親密と見られていた中国共産党指導部と、金正恩氏の関係は険悪化していく。それどころか金正恩氏は、核開発とからんで中国を罠にかけようとさえする。
見世物のように虐殺
人気記事:金正恩氏が反応「過激アンダーウェア」の美女モデル写真続いて、軍首脳の玄永哲人民武力部長(国防大臣)らが正恩氏の刃にかかる。玄氏はまるで見世物のように虐殺されたとされるが、処刑の理由はいまひとつ定かではない。単に、会議中の居眠りが発端だったという説すらある。
(参考記事:「家族もろとも銃殺」「機関銃で粉々に」…残忍さを増す北朝鮮の粛清現場を衛星画像が確認)高位級幹部だけではない。正恩氏はスッポン養殖工場の支配人を処刑する直前の動画を公開。自身の怒りに触れたらどうなるかを国内に嫌と言うほど見せつけた。
人気記事:金正恩氏が反応「過激アンダーウェア」の美女モデル写真こうした過程を経て、今月6日に36年ぶりの朝鮮労働党大会が開幕したときには、公の場で正恩氏を批判しようなどという空気は、北朝鮮国内のどこにもなくなっていた。中国を後ろ盾にして何かをしようと考えるのも、むしろ逆効果だ。
労働者を虐殺
彼は恐怖政治を武器に、祖父の教訓を見事に生かしたのだ。
同時に正恩氏は、党大会での報告で、北朝鮮と朝鮮労働党の歴史を意のままに解釈。異を唱えられなかった幹部らは「踏み絵」を踏まされたようなもので、今後はいっそう、正恩氏に服従せざるを得なくなった。
正恩氏は、人事も好きなようにいじった。腹心を出世させたのはもちろんだが、サプライズ人事もあった。衆人環視の中で連行され、処刑されたと思われていた軍幹部を復権させた。自らに服従すればこそ生きられるということを、見せつけたかったのではないか。
正恩氏が、このような「血と恐怖」のシナリオをもって党大会開催を目指したのだとすれば、彼の権力に対する本能と野望はまったく侮れないものだということになる。
しかし、そのことが今後も彼の統治が上手くいくことを意味してはいない。北朝鮮国民が切実に求めているのは、飢える心配のない生活であって、それを「恐怖政治」で与えることはできない。北朝鮮で、国民が体制に異を唱えることは、死の危険に直結する。それでも、異を唱えた人々がいなかったわけではない。
(参考記事:抗議する労働者を戦車で轢殺…北朝鮮「黄海製鉄所の虐殺」)もし、こうした出来事が再現されたとしたら、国際社会から人権問題で厳しい追及を受ける中、金正恩体制は「虐殺」で応じることができるのか。金正恩体制はいずれ、北朝鮮国民から最も深刻な挑戦を受ける可能性があるということだ。