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【日韓国交50年】岸信介から安倍晋三まで…首相一族の「在日人脈」と「金脈」-連載(上)-

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日本と韓国は今年、国交正常化50周年を迎える。両国関係はいま、従軍慰安婦や領土問題をめぐり「最悪」とも言える状態にある。しかし、日本国総理大臣の座にある安倍晋三の一族が、政治家として他に類を見ないほど朝鮮半島と深い縁を結んできたことも、また事実なのだ。(文中敬称略)

地元・山口県と韓国にまたがる「王国」を築く

手元に、1冊の写真集がある。タイトルは「関釜フェリー就航記念アルバム」。1970年に編纂された非売品だ。当時から在日本大韓民国民団(以下、民団)の活動に関わってきた下関在住の在日コリアン(以下、在日)2世の男性は、「ごく限られた人々に配布されたのでしょう。私も初めて見るものだ」と驚く。

1965年に国交正常化した日韓両国にとって、韓国・釜山との間を往復する関釜フェリーの就航は、新時代の訪れの象徴だった。アルバムの70枚を超える写真からは、当時の興奮がひしひしと伝わってくる。

関釜フェリーの就航式典に参加した岸信介(前列右)/「関釜フェリー就航記念アルバム」より

その中に、山口県を地盤とするふたりの政治家の姿がある。国交正常化の立役者となった元総理の岸信介、そしてその娘婿であり、安倍晋三総理の父でもある晋太郎だ。日韓協力委員会初代会長の岸の名は、アルバム巻末の関係者名簿の筆頭に掲げられている。

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岸と晋太郎、晋三は三代にわたり、朝鮮半島、そして在日の人々ときわめて密接な関わりを持ってきた。下関の街を歩くと、その縁の深さを示す手掛かりがいくつもみつかる。

JR下関駅から車で5分。関門海峡に面した所に、室町から江戸時代にかけ日本を訪れた外交使節団「朝鮮通信使」の記念碑が建っている。2001年、地元政財界の有志が建立したもので、碑の裏には晋三の名も刻まれている。「朝鮮通信使上陸淹留之地」と揮ごうした韓国の金鐘泌(キム・ジョンピル)元首相は、岸や晋太郎と親交を結んでいた。

父親が晋太郎の支援者だったという在日2世のパチンコ店経営者は、「金元首相が下関に来たときには、私の父や地元の民団幹部が晋太郎さんといっしょに食事をしていた」と懐かしむ。

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下関駅前のコリアンタウン「グリーンモール商店街」には、64年間営業を続ける食堂「アリラン」がある。晋三が常連で、店内には本人が「福」と墨書した色紙や、昭恵夫人といっしょに訪れた際の写真が飾られている。

在日1世の店主、鄭順さんは話す。

「(晋三は)奥さんとふらりとやってきて、ホルモン鍋を食べて行く。偉くなってからは、店がボディーガードであふれたこともあった。最近は忙しいからか姿を見せないけど、本当に気さくでいい人」

韓国情報機関と旧日本軍人脈

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1993年までの中選挙区時代、岸は生家のあった山口市を含む旧山口2区を、晋太郎は郷里・油谷町(現長門市)や下関市などからなる旧山口1区を選挙区としていた。

その後、小選挙区比例代表並立制に移行してからも、下関と長門(山口4区)は晋三の地元だ。

下関の地名は、在日韓国・朝鮮人にとって特別な響きを持っている。戦前戦中には関釜連絡船が年間200万人を運び、半島から労働力として送り込まれた人々が、後に在日コミュニティーを築いた。戦後は故郷に帰る人々を送り出す一方、朝鮮総連と民団が凄惨な抗争を繰り広げたこともあった。

現在、下関市に暮らす在日外国人のうち、韓国・朝鮮籍の人は約 2900人。留学生なども含まれる数字だが、大多数が戦前に渡ってきた人とその子孫だ。

下関市の全人口(約27万人)に占める在日の比率は1パーセントで、全国平均(0.4%)の倍以上だ。日本国籍を取得した人とその家族を加えれば、下関の在日人口は万を超える。

そんな土地柄にあって、地元選出の政治家と在日の関係が深まるのは何ら不思議なことではない。

だが、現地を取材する中で改めて見えてきたのは、岸から晋三に至る三代の政治家が、「単なる近所づきあい」ではくくれないほど、在日社会と深い因縁を結んでいる事実だった。

日韓国交正常化からこれまでの間に、韓国経済は世界でも稀に見る高度成長を遂げた。その“元手”となったのが、国交正常化に際して日本が提供した無償3億ドル・有償2億ドルの経済支援であったのは論をまたない。

1961年5月、クーデターで政権を掌握した韓国の朴正熙(パク・チョンヒ)少将(後に大統領)は、1951年に予備会談が開始されて以来、10年以上にわたり難航していた日韓国交正常化交渉を一日も早く妥結させ、日本の賠償金で経済復興を成し遂げることを急務としていた。

交渉打開の糸口を探るため、韓国中央情報部(KCIA)が頼ったのが、海軍特務機関出身の児玉誉士夫や、戦時中に上海で「大陸新報」を発行していた、国策研究会常任幹事の矢次一夫だった。

日韓漁業協定で繁栄した下関

満洲国の元高官だった岸は、そうした人脈の仲介でKCIA幹部の崔英沢(チェ・ヨンテク)と赤坂の料亭で面会。ふたつ返事で協力を約束し、政界の根回しに動いた。

そういった経緯を考えれば、岸は韓国経済にとっての「大恩人」と言えるのかもしれない。

しかしその一方、岸が日韓国交正常化を踏み台に、地元・山口県と韓国にまたがる「王国」を作り上げた事実はあまり語られていない。

ある週末の夜、下関の繁華街・豊前田の通りを歩いた。飲み屋街も人影はまばらで、地元経済の衰勢は覆いようもない。

「昔はこんなんじゃなかった。漁船員や水産関係者が落とすカネだけでもたいへんなものだったし、東京や大阪からの出張客も毎日のように来ていた」(地元の料理店主)

1960年代、下関漁港の水揚げ量は日本一を誇り、地域経済は繁栄をきわめていた。

そのきっかけになったのが、他ならぬ日韓国交正常化だったのだ。

韓国の初代大統領・李承晩は1952年、「海洋主権を守る」として日本海と東シナ海に一方的に軍事境界線(李承晩ライン)を引き、排他的経済水域を設定。ここに入った日本の漁船をことごとく拿捕し、約4000人もの船員を抑留した。その大部分が山口県民であり、岸の元には早期救出を求める陳情が殺到したという。

そして、国交正常化と同時に日韓漁業協定が締結され、李承晩ラインが撤廃されると、下関を母港とする漁船団の漁場は一気に拡大。山口県経済の隆盛を呼んだのだ。地元財界人が言う。

「当時、下関に本社のあった大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)は、東大卒の新入社員を取り放題というほど勢いがあった。漁業だけでなく関連産業も潤い、巻き網やウインチの製造で世界のトップを占めた会社もある。それらの業者がことごとく岸さんの応援団になり、もちろん献金もした」

暴力団「東声会」会長・町井久之

岸はまた、町井久之をはじめとする在日の有力者とも人脈を広げていた。

町井は、本名を鄭建永という。1923年、東京に生まれた町井は戦後、在日を中心に1500人の無頼漢を糾合し、暴力団「東声会」会長として名をはせた。政界の黒幕・児玉誉士夫とはとくに親しく、その政界人脈を足掛かりに、日韓国交正常化交渉の水面下で橋渡し役を果たした。

この時、岸と町井は児玉を介して接近。それ以降、岸は町井のパーティーにちょくちょく顔を出すようになり、町井が六本木に巨大な複合ビル「TSK・CCCターミナル」を建てると、主賓として竣工式に招かれている。

町井は愛国者であると同時に、商売にも貪欲だった。国交正常化後、ソウル市地下鉄開発など巨額の日韓ビジネスを差配していた岸は、町井が利権に食い込むための最重要パートナーであり、両者の協力関係は下関にも及んだ。

初めての航路に就く関釜フェリー/「関釜フェリー就航記念アルバム」より

実は、冒頭で触れた「関釜フェリー就航記念アルバム」は、町井の生前の書棚に所蔵されていたものだ。しかし、巻末に記載された関係者名簿に、彼の名前を見つけることはできない。

「それでも、関釜フェリー就航が町井さんの尽力によるものだったのは間違いありません。昔のこととは言え、暴力団の親分だった町井さんが、岸さんと名前を並べるのははばかられたのでしょう」(前出・パチンコ店経営者)

岸が日韓国交正常化を踏み台に築いた王国と人脈は、彼の秘書官を経て政界に打って出た晋太郎にも受け継がれた。その上、晋太郎は在日とのパイプをさらに太いもにに育てていく。(つづく)

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(取材・文/ジャーナリスト 李策)

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