DAILY NK JAPAN

政治犯収容所などでの拷問・強姦・公開処刑の恐怖

北朝鮮における人権に関する国連調査委員会の報告(詳細版)から抜粋

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 目次

E.恣意的拘禁、拷問、処刑、強制失踪、政治犯収容所

1.恣意的逮捕および強制失踪

2.拷問と飢餓を使用した尋問

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(a)拷問の体系的かつ広範な使用

(b)国家安全保衛部による拷問および非人道的取扱

(c)人民保安省による拷問と非人道的取扱

(d)司法手続または法律外の手段による懲罰の決定

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3.政治犯収容所

(a)政治犯収容所の場所および規模

(b)政治犯収容所制度の進展と目的

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(c)完全支配、拷問、処刑

(d)性的暴行、家庭を持ち子を作る権利の否定

(e)飢餓、強制労働、疾病

(f)収容中の死亡と死者の尊厳尊重の欠如

4.通常刑務所での重大な侵害

(a)通常の刑務所(教化所)

 (ⅰ)通常刑務所の規模と所在地

 (ⅱ)収監前の不公正な裁判

 (ⅲ)拘禁中の非人道的状態

 (ⅳ)拷問と処刑

 (v)強姦と強制堕胎

 (ⅵ)治療の欠乏、収容中の死亡、死者への敬意の欠乏

(b)短期強制労働収容所

5.処刑

(a)中心的な場所での公開処刑

(b)抑留場所での処刑

6.人体実験

7.調査委員会の主な調査結果

E.恣意的拘禁、拷問、処刑、強制失踪、政治犯収容所

➢ 693
委員会は、「市民的および政治的権利に関する国際規約」(ICCPR)の第6条(生命に対する権利)、第7条(拷問、残虐な取り扱い、非人間的あるいは屈辱的取り扱いからの自由)、第9条(身体の自由および安全に対する権利)、第10条(被抑留者の人道的取り扱い)、第14条(公平な裁判を受ける権利)に基づく北朝鮮の人権保護義務を中心として、恣意的拘禁、拷問、処刑、収容所に関する報告を作成した。また、「児童の権利に関する条約」(CRC)第6条(生命に対する権利)、第37条(拷問および違法な自由剥奪からの自由)、第40条(抑留中の処遇)が定める児童の権利にじても考慮した。

1.恣意的逮捕および強制失踪

➢ 694
北朝鮮の法令は、捜査時および裁判審理前の段階での捜索、没収、逮捕といった広範な権限を公安当局に与えている。ICCPR第9条第(3)項は、刑事上の罪に問われて逮捕され又は抑留された者は、裁判官又は他の官憲の面前に速やかに連れて行かれるものと定めており、北朝鮮はかかる国際的義務があるにもかかわらず、抑留手続の監視は裁判所ではなく検察当局のみが行っている。刑事訴訟法によれば、検察官は逮捕状を発行して被疑者に提示する必要がある。抑留継続の許可申請は検察官が逮捕から48時間に行わなければならないとされている。

➢ 695
実際には、上記の定めがあるにもかかわらず、北朝鮮の法令は必ずしもこれらに従っていない。韓国の大韓弁護士協会が2012年に実施した北朝鮮の抑留および裁判実態の調査では、逮捕された時点で抑留の根拠を示す逮捕状その他の文書を提示されたのは回答者のうじわずか18.1%だった。大半の者は逮捕理由を告知されていなかった。被疑者には逮捕理由が口頭でも告知されないことが少なくなかった。

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➢ 696
北朝鮮の刑事司法制度全体で適正手続が欠如していることは明白であるが、このことは特に、国家安全保衛部および朝鮮人民軍保衛司令部が取り扱う事件で顕著である。経験則からすると、事件の政治性が高いと判断されるほど、被疑者が憲法および刑事訴訟法が定める適正手続を受ける可能性は小さくなる。政治犯罪の被疑者は夜間に路上や職場で逮捕されて抑留施設に連行されることがしばしばである。取り調べの内容により逮捕理由が推測できるのみであること少なくない。

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➢ 697
北朝鮮刑事訴訟法第183条によれば、逮捕理由と被疑者の抑留場所を48時間以内に被疑者の家族に通知しなければならない。実際には、この要件は守られないことがしばしばである。上記の大韓弁護士協会の調査によれば、家族に抑留が通知されたのは回答者の49.4パーセントのみであった。

➢ 698
政治犯罪の被疑者は連絡を絶たれるのが通常である。友人、職場の同僚、近所の住人の目からは単なる失踪に見え、再び消息を聞くことはない。近親者であっても被害者の逮捕理由や所在は知らされない。ただし、家族は賄賂や個人的接触を通じた非公式な経路からこれらの情報を得ることができる場合もある。従って、北朝鮮の政治的意図に基づく逮捕があれば最初の段階の逮捕時に強制失踪となり、その後は被害者の消息や所在地に関する情報開示が拒否され、被害者は法律の保護の外に置かれる。

➢ 699
調査委員会は、政治犯罪容疑者として逮捕された者の消息に関する情報開示の拒否はこの制度で意図的に行われていると判断している。こうすることで、絶対的服従心を示さない者は、当局のみが決定し当局のみが知る理由により、いつでも失踪状態になることを国民に告げることとなる。

2.拷問と飢餓を使用した尋問

➢ 700
人民保安省は、村、市、郡、道、全国のレベルで警察署と取調拘置所(拘留場)のネットワークを運営している。捜査が通常より長引く場合、被疑者、特に中国から出国してきた者は拘置所(尋問拘留所)に拘置されることもある。国家安全保衛部に逮捕された政治的行為または犯罪の被疑者は、最初は郡、道、全国単位で設けられている取調拘置所に抑留される。また、国家安全保衛部には多数の秘密取り調べ抑留施設があると思われる。これらは婉曲に「招待所」と呼ばれている。

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➢ 701
北朝鮮刑事訴訟法が2005年に改正され、取り調べおよび関連する裁判前拘置は2ヶ月を限度とされることになった。検察庁の承認によりこの期間は延長することができ、まれに4ヶ月に達することもある。人民保安省が取り扱う通常の犯罪ではこの期間が遵守されるのが通常である。

➢ 702
しかし、政治犯罪事件になると状況は変わる。重大政治犯罪の被疑者は、犯罪および共犯者を全面自白したと捜査当局が判断したかにより、数日から6ヶ月以上にもわたり取調拘置所に拘置される。郡の国家安全保衛部取調拘置所、道の国家安全保衛部取調所そして希には平壌の国の拘置所で連続的に取調を受けることも少なくない。

➢ 703
軽微な政治犯罪被疑者であっても最終処罰が決定されるまで、保安部署をたらいまわしにされ、数ヶ月の予備拘禁がなされる場合もしばしばである。多くの場合、被疑者は国家安全保衛部または朝鮮人民軍保衛司令部による詳細な取調を受ける。被疑者の犯罪が軽微であると判断された場合には人民保安省に引き渡され、取調手続が再開される。

(a)拷問の体系的かつ広範な使用

➢ 704
取調段階で、被疑者を屈服させ全面自供に追い込むために体系的な屈辱的取扱、威迫、拷問が行われる。取調拘置所の物理的構造も、屈辱的取扱、威迫ができるよう設計されていることもしばしばである。

このような地下房は、国家安全保衛部取調所にはよくある。

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➢ 705
北朝鮮刑事訴訟法第167条は、強制的手段により被疑者の自白を得ることを禁止している。さらに刑事訴訟法第229条は取調手続において、証人および被疑者に強制あるいは威迫を用いてはならないと定めている。

➢ 706
調査委員会が秘密聞き取り調査を実施した元国家安全保衛部担当官および人民保安省担当官は、上司からの一般的指示では、被疑者を拷問するよう求められてはいなかったと述べた。時折、最高指導者および他の中央政府機関からのものと思われる拷問を使用しないようにという一般的指示があった(幹部が拷問の使用を認識していたことを示す)。ただし、特定の重要事件においては、最高指導者から、特定の個人を無慈悲に取り調べるようにとの命令があった。元北朝鮮担当官はまた、特に政治的に重要な事件にじては、被疑者の自白および共犯者の供述を得るため、拷問が使用されていることは命令系統全体で了解されていたと述べた。被疑者を殴打して自白させることが最も一般的な方法であったが、より残忍で高度な方法も用いられた。

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➢ 707
取調過程での拷問方法は確立されている。さまざまな場所でさまざまな時期に同一方法の拷問が行われている。被疑者が自白するまで殴打することは当然だと考えている担当官も少なくない。一部の取調施設には高度な拷問のための設備が整えられている。

上級担当官が部下に対して効果的な拷問方法を指示することもある。その実例は下記のとおりである。

何時間も冷水に漬けておくと言われた。つま先立ちになってかろうじて鼻が水の上に出た。ほとんど呼吸もできなかった。溺死の恐怖で錯乱状態になった。

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➢ 708
原則として、北朝鮮刑法第253条は拷問その他の違法手段による取調を禁止している。北朝鮮は、拷問および残虐な方法での取調の被害者には正当な補償を行っているとしている。被害者は拷問を受けたときには検察官に報告することができ、朝鮮労働党、司法省、国家審査委員会に申し立てができる特別の手続がある。

➢ 709
ただし、実際上は、加害者は責任を問われない。調査委員会が入手している情報では、加害者が責任を問われた例は1例のみである。調査委員会が収集した情報には、拷問被害者に対して、国際法が要求する適切、有効、かつ迅速な補償が行われた例はない。

(b)国家安全保衛部による拷問および非人道的取扱

➢ 710
「反国家および反人民犯罪」の取締の中心機関である国家安全保衛部拘置所での取調における被疑者の取扱は特に残忍かつ非人間的である。国家安全保衛部が拘置した被疑者は通常、外部との連絡を遮断され、さらに弱い立場になる。

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➢ 711
拘置中の非人道的状況は、被拘置者が、生き延びるために迅速に自白する圧力となる。取調段階で、被疑者には飢餓状態にすることを目的とした食事しか与えられない。

➢ 712
一部の拘置所では、収監者は農作業や建設などの強制労働に従事させられる。これは、正式な起訴がなされていない者の強制労働を禁止した国際基準に違反する。

➢ 713
収容者は、取調および労働以外の時間には、過密であることも少なくない房の中で、一日中座った状態または跪いた状態でいることを強制される。許可なしに話すこと、動くこと、周囲を見ることは許されない。この規則に違反すると殴打、食事量削減、強制的な身体運動といった懲罰が課される。懲罰は房内の全員に一斉に行われることも少なくない。

➢ 714
国際基準では、男女が分けられるのが一般である。しかし、特に、中国から強制退去させられた者の取調においては、あらゆる年齢の子どもたちが大人と一緒に拘禁されている。幼い子は通常、母親と一緒にいることが許される。子どもも大人と同様に非人道的環境に置かれるが、典型的な強制労働は免除されるのが普通である。

➢ 715
被拘禁者は劣悪な衛生環境にあり、病気も伝染しやすい。治療は重病人のみ、あるいはまったく治療が行われない。相当数の収容者が飢餓または疾患で死亡している。

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自白を引き出すため、チョン氏は上下逆さ吊りにされて棍棒で殴打された。調査委員会が聞き取り調査を行った他の多数の証人と同様、チョン氏もいわゆる「鳩拷問」にかけられた。「後ろ手にされた両手に手錠をかけられ、立ったり座ったりできないように吊られた」とチョン氏は述べている。チョン氏は鳩拷問のつらい姿勢のまま3日連続で過ごさなければならないことが何度もあり、激痛に苦しんだ。

「見張っている者はいない。誰もいない。そして、立つことができない。眠ることもできない。こんな状態で3日、4日も吊られていると大小便を失禁する。不潔きわまりない…[鳩拷問は]拷問の中でも一番つらかった。あまりの辛さに死んだほうがましだと思った」。チョン氏は国家安全保衛部の検察官に対し、虚偽の自白をするまで拷問されてしまうと訴えたが、とりあわれなかった。

「検察官は助けてくれると思ったが、検察官が立ち去った後に取調官が戻ってきて私を殴打し、逆さ吊りにした。翌日、その検察官がやって来てきて「正直に言う気になったか?」と聞いた。私は「はい、私はスパイです」と自白した」。

を受けた。兄弟が姿を消しており、国外逃亡が疑われたからである。取調中、クォンさんは棍棒で頭を殴られた。また、100ページ・の自己批判書を書かされた。殴打により腫瘍ができ、北朝鮮から脱出後、手術により切除した。

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「10年たってもまだ傷跡が消えない。韓国に来てから韓国政府が義歯を作ってくれたが、その当時、私は歯を失っていた。そして耳は10年後の今も痛む。頭は木の棍棒で殴られた痛みが消えない。まだ傷がある。10年間、頭に傷があるままだ。」● Xさんは咸鏡北道の国家安全保衛部の取調拘置所で10日間、取調を受けた。尋問にはいつも殴打が伴った。

「死ぬほど殴られていた。答えが取調官の気に入らないとコンクリートの床に跪かせられ、殴られた。」

収容者は尋問されていないときには房内で動かずに跪いていなければならず、口をきいてはならなかった。誰かが話しているのが見つかると、房内の全員がスクワットを1000回やらされた。その最中に多くの人が気絶した。あるとき、Xさんは同房の収容者が床に横たわり、動いていないことに気づいた。看守にこれを告げると、彼女は懲罰として踏みつけられ、頭から流血するまで、棒でたたかれた。さらに房内の全員が3日間断食させられた。

➢ 716
多くの被疑者が拷問、意図的飢餓、劣悪な住環境による疾患またはその悪化により取調拘置所で死亡した。

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(c)人民保安省による拷問と非人道的取扱

➢ 717
証人は人民保安省の取調担当官による取調、特に中国への無許可の旅行その他の政治的意味のある行為に対する取調での拷問と意図的飢餓にじても述べている。拘禁状況は国家安全保衛部による拘禁とほぼ同じ・であるが、被疑者は家族との面会が時折許可された。

「彼らは何十回も私の背中を打じ、気絶寸前になった。叫ぶこともできなくなった。叫べなくなったら打つのが中止された。答えを得るまで殴れと命令されていたのだと思う。」

「彼の手は、その手と同じくらいの厚さの物で打たれて膨れ上がっていた。看守は房に戻るように言ったが、[膨れた手を狭い棒の間から]引き抜くことができなかった。収容者は崩れ落じて泣き続けた。他にできることはなかった。」

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鳩拷問-元被収容者キム・ガンギル氏が提出した絵

 

クレーン、飛行機、オートバイの拷問-元被収容者キム・ガンギル氏が提出した絵

 

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(d)司法手続または法律外の手段による懲罰の決定

➢ 718
取調手続の終了時に、被害者は取調機関が作成した自白書の内容の正確さの確認として、指にインクを付けて指紋押捺をさせられた。国家安全保衛部では、同じ文書で取調拘置所での経験を口外しないことが義務付けられ、これに反した場合には重大な報復があると脅迫された。

➢ 719
この段階で、取調機関は、被疑者の懲罰を司法手続により行うか、裁判所を関与させずに法律外の方法で行うかの重要な決定も行う。これらの決定では、犯罪の程度、被疑者の家族の社会政治的影響力(「成分」)、事件を司法手続で快活するか法律外手段で解決するかに関する政治的都合が考慮された。

➢ 720
経験によれば、国家安全保衛部が取り扱う政治的事件では、重大な政治犯罪ほど司法を通さずに法律外で処理される率が高くなる。意思決定は高度に集中化されており、道や国の中央機関と協議されるのが通常である。取調を行った国家安全保衛部機関が重大事件であると判断した場合には、強制失踪として秘密政治犯収容所に送られるか、または簡易処刑が行われるが、そのためには少なくとも国家安全保衛部全国中央機関の判断が必要である。

➢ 721
ある者を政治犯収容所に送致するかどうかの決定に、裁判所は関与していないようである。この裁判所の排除は、国際法への違反のみならず、北朝鮮刑事訴訟法第127条にも違反している。同条によれば、道人民裁判所は終身刑を含めた政治犯罪事件の管轄権を持つ。公開裁判や処刑を通じて一般人の目に触れる見せしめとするために政治的に重要だと当局が判断した重大事件は、裁判所に送致されることもある。このような場合、国家保安省が運用する特別軍事裁判所が使用されることが少なくない。

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➢ 722
一方、中程度の政治事件には司法手続が取られることが通常である。このような事件は国家安全保衛部の取調部署が国家安全保衛部検察局に送致し、起訴および裁判の準備を行う。政治犯罪の重大性により、国家安全保衛部検察官は死刑、通常の政治犯収容所での懲役、短期の強制労働収用所を求める。

➢ 723
被疑者の政治犯罪が軽微であるあるいは非政治犯罪であると国家安全保衛部が判断したときには、人民保安省による取調に送致する。

➢ 724
人民保安省が事件を取り扱う場合、経験上、逆のルールが適用される。事件が重大であるほど司法手続に付され、軽微事件には裁判所が使用されことが少なくない。

➢ 725
司法手続による場合、人民保安省検察局と協力する。検察局が懲役を求刑し、あるいは政治的に重要でありそれが適当と判断した場合には死刑を求刑する。

➢ 726
比較的軽微な事件の場合、人民保安省は被疑者を短期強制労働収容所に送り、懲役および強制労働に従事させる。その期間は数ヶ月から2年である。場合によっては、SSDの国レベルの機関も、比較的軽微な事件にじては被疑者にじて同様の取扱を行う。

➢ 727
これらの司法手続を経ていない「刑」はICCPR第14条が定める法律に基づく権限があり、独立性があり、公平な裁判所の公正かつ公開の裁判を受ける被疑者の権利を侵害している。また、北朝鮮の法律、特に、行政刑罰として無報酬労働は認めているものの懲役は認めていない強制罰法にも適合しないと考えられる。かかる司法外の刑罰は刑法第252条が定める刑事犯罪にも該当する。しかし、保安担当官が刑法第252条に違反して司法機関の処罰権を違法に侵害したとして有罪となった証拠を調査委員会は1件も文書化できなかった。

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➢ 728
国家安全保衛部と人民保安省の担当官は政治犯摘発の大きな圧力を受けている。被疑者に寛大に接すれば自身も疑惑および懲罰の対象となることをしばしば恐れている。

その結果、不当に政治犯とされた者であっても、不可能ではないとしても、処罰を免れることは困難であることが少なくない。ただし、政治力のある友人の仲介や増加傾向にある賄賂の支払により、軽微犯罪の被疑者が釈放されることも少なくない。

3.政治犯収容所

➢ 729
重大政治犯とされた者は、即時処刑とならなかった場合でも、公式には存在しないことになっている政治犯収容所に強制失踪させられる。大半の被害者は終身収容され、生きて収容所を出る可能性はない。収容所の収容者は外部と連絡することが許されない。近親者でも、存否の通知を受けることはない。

➢ 730
収容所は政治、イデオロギー、経済面で現在の政治体制および北朝鮮の指導者層に異議を唱えた団体、家族、個人を社会から恒久的に排除するものである。これらの秘密収容所から漏れ伝えられる限定的情報は北朝鮮国民を怯えさせ、将来の政治体制への挑戦を阻んでいる。収容所は一般に遠隔地や山岳地帯に設けられているため、誰かが「山送り」にされたという表現は北朝鮮では国による強制失踪を意味する。数人の証人からの調査委員会への証言によれば、国民は収容所の存在を知っており、収容所での違法行為を漠然と知っている。国民は大きな恐怖を感じている。

「北朝鮮国民全員が[収容所にじて]知っていた。一度入ったら出るすべはないと思われていた。非常に残忍な場所であり、警察官に殴られたりする経験から、収容所内の苛酷な取扱いが思いやられた。」

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「私たちは、いったん入ったら出られないことを知っていた。皆がそのことを知っていた。[政治犯収容所に]送られるときに正式な手続は取られず、一家が一夜でいなくなると、[政治犯収容所に]送られたのだと推測した。」

➢ 731
当局は北朝鮮の政治犯収容所の存在をかたくなに否定している。政治犯収容所は、1980年代後半から国際人権団体が報告しているにもかかわらず、その存在が国家秘密とされている。当局は外界から政治犯収容所の詳細を隠蔽するため、多大な努力を払っている。収容所は軍事施設や農場を装っており、身元確認済みの一部の担当者以外は入ることができない。収容所への人権団体の立ち入りが認められたことはない。

内部の秘密用語でも、収容所は「管理所」と呼ばれている。収容者たちは「移住民」と呼ばれる。国家保安省の収容所管理部局(第7部)は「農場部」として知られている。秘密証言によれば、北朝鮮外交官は収容所の存在を認めないように厳命されている。

➢ 732

看守、釈放された収容者、収容所の近隣地域は、収容所に関する情報を漏らすと厳罰に処すと脅されている。その顕著な例として、武力紛争や革命が発生したときには収容所が存在したことの証拠隠滅のため全収容者を殺害するように収容所当局に命令が出されている。最初の命令は金日成自身が出したと考えられ、その後、金正日が再確認している。

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➢ 733
政治犯収容所の存在の否定および隠蔽への努力にかかわらず、調査委員会は、1950年代後半から多数の政治犯収容所が開設されたこと、および現在も存在することを把握している。元収容者や看守など、政治犯収容所を自身で体験しまたは見た多数の者の聞取調査が実施されている。その数人が公聴会で証言した。

➢ 734
また、調査委員会は収容所の衛星写真を入手して衛星写真分析専門家に依頼して分析し、その結果を当該建築物を特定できた元看守および収容者の証言で補足した。これらの画像は大規模な主要施設が現在も存在し、運用されていることを調査委員会に証明する上で十分なものである。また、収容所の構造の変化が明確に見て取れるほか、元収容者および看守の直接体験証言もあった。調査委員会による公聴会で、数名の元収容者および看守が衛星画像の収容所を特定して場所を説明することができ、どういう構造であったか。どこで強制労働や拷問、処刑が行われたか、その他の収容所での出来事を説明した。

(a)政治犯収容所の場所および規模

➢ 735
北朝鮮には現在、大規模収容所が4箇所あることが分かっている。北朝鮮の内部用語では、これらには識別用の番号が割り振られている。

- 第14政治犯収容所は平安南道价川市に所在し、面積は150平方キロメートルである。1960年代からあったようであるが、1980年代初めに現在地に移転した。すべての収容者が終身収容された。収容所の脱走に成功した収容者は分かっている限りで1名だけであり、そのシン・ドンヒョク氏は、調査委員会の公聴会で証言している。衛星画像から見ると、同氏が2005年に脱走した後、施設は拡大されているようである。

- 第15政治犯収容所は、面積が370平方キロあり、平安南道耀徳郡の複数の村に広がっている。他の収容所の収容者は釈放されることなく死ぬまで出られないが、第15収容所は完全統制区域と革命化区域に区分されている。完全統制区域の収容者はイデオロギー的に救済不能とみなされ、終身出られない。革命化区域の収容者はこれより軽度であり、「成分」が良い特権階級出身者が多かった。以前には、数年服役した後、勤勉労働、教義学習会への積極的参加、さらには賄賂の支払により収容所当局にイデオロギー改善が認められた者は釈放されることもあった。

- 第16政治犯収容所は面積が560平方キロ、咸鏡北道化成の荒地にある。豊渓里核実験所に近い。体験者の証言によれば、この収容所は1970年代からあったが、当時はずっと小規模だった。収容者たちは収容所内の北西区域と南東区域に区画が別れていた。

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- 第25政治犯収容所と呼ばれることが多い抑留施設は咸鏡北道清津市のそばにある。第14、15、16政治犯収容所はそれぞれに数万人の収容者がいたが、第25収容所は数千人であった。また、他の収容所とは異なり、警備が最高度に厳重であり、主要棟は高い壁に囲まれている。収容者たちは、政治的理由により裁判なしで終身刑とされており、そのため、第25収容所は政治犯収容所であると判断される。近年、第25収容所は拡張された。2006年と比較して敷地面積がほぼ倍増し、980平方キロメートルになっている。

➢ 736
第14、15、16政治犯収容所は国家安全保衛部(SSD)が管轄している。第25収容所もSSDの管轄である可能性が高いが、確実ではない。

➢ 737
理事会は、これまでに知られている政治犯収容所と同様な状態で政治犯が収容されている秘密収容所が存在する可能性を排除できない。特に、証人からの情報によれば、朝鮮人民軍保衛司令部が秘密の場所に小規模な収容所を設けている可能性があり、ここには将校や一般兵士が政治的理由により裁判なしで収容される。

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➢ 738
過去には他にも政治犯収容所があったことは間違いない。12あるいはそれ以上あった模様である。時間の経過に伴って統合されてきた。一部の収容所は閉鎖され、残った収容者は、拡張された他の場所に移送された。

- 会寧(咸鏡北道)に近くにあった第22政治犯収容所は、1960年代から2012年半ばの閉鎖まで、国家安全保衛部が管轄していた。当局が閉鎖した理由は、中国国境に近いため脱走のおそれがあり、また収容所に関する情報が外界に漏れることを恐れたからだと考えられる。

2009年か2010年頃に閉鎖が開始される前の第22収容所には3万から5万人の収容者がいたとみられる。第22収容所の収容者が釈放されたという情報はない。調査委員会は不明の多数の収容者の消息を把握できていない。第22収容所の収容者がどうなったかにじては様々な意見がある。第22収容所の収容者は第14、15、16の収容所に分散収容されたという見解もある。また、他の収容所の衛星画像からは第22収容所からの全員の移送受け入れのための施設拡大が行われた形跡はないとしている。また、2009年と2010年に第22収容所から多量の食料が他に移送され、これにより多数の収容者が餓死したとの見方もある。

- 国家安全保衛部が管轄する第11政治犯収容所は咸鏡北道の冠帽峰の上部斜面にあった。当初は幹部クラスの収容者およびその家族が中心であった。1980年代終わりに、閉鎖されたらしい。この地域に金日成の別荘が建設されたと見られているからである。収容者たちは第16および22の収容所に分散された。

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- かつての第12および13政治犯収容所(ここも国家安全保衛部が管轄)は現在の咸鏡北道穏城郡にあった。収容者には旧地主、政敵である社会主義政党支持者、日本の植民地行政の協力者がいた。収容所は1990年代初めに閉鎖された。残った収容者は第22号収容所に移送されたとみられる。

- 少なくとも1960年代初めから、平壌近くの寺洞には政治犯収容所があり、第26収容所と呼ばれることがあった。元政治犯がその存在を公表し、アムネスティ・インターナショナルが同収容所にじて詳細な報告を行ったことを受けて、1990年代初めに閉鎖された。

➢ 739
2006年まで、人民保安省およびその前身である社会安全保衛庁は、国家安全保衛部および北朝鮮労働党の監督の下、政治犯収容所を運営していた。人民保安省の収容所は既存の収容所のすべてのルールと同一のルールを設けていたわけではないが(婚姻禁止など)、これらの収容所は、収容者の強制失踪や裁判なしの収容、飢餓と強制労働という点で現在の収容所と類似している。

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➢ 740
収容所を直接に訪問することができないため、さまざまな時点での正確な収容者数を推定することはきわめて困難である。1982年に韓国国家情報局が提出した最も早期の推定では、収容者数は10万5000人としている。衛星画像および元看守、収容者の証言に基づいて非政府組織が行ったその後の推定では、1990年代から2000年代の初めの収容者数は15万人から20万人である。

➢ 741
調査委員会への報告提出者はおおむね、ここ数年のうじに政治犯収容所の収容者数は減少したとしている。韓国統一研究院(KINU)の推定では、現在の政治犯収容所の収容者数は8万人から12万人である。この値はKINUが最新の衛星画像分析および証人からの証言に基づいて導き出したものでああり、第18政治犯収容所からの収容者釈放および第22政治犯収容所の収容者の消息不明状況を取り込んでいる。非政府組織である北朝鮮人権委員会(HRNK)も収容者の正確な数は8万人から13万人程度であろうとしている。これらの推測人数は、2011年の北朝鮮人権データベース・センター(NKDB)の予測とも合致する。同センターの予測では、収容所の収容者数を少なくとも13万500人としているが、第22収容所の閉鎖および第22政治犯収容所の収容者の消息不明状況は取り込んでいない。

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➢ 742
収容者数の減少は、ある程度は第17収容所の収容者の釈放が原因であろう。しかし、これと同程度に重要な要素は、獄死および収容者は原則として子を持つことが許されていないという事実である。釈放が増加していない中での収容者数の減少は、新規収容者の数が飢餓、放置、苛酷な強制労働、疾患、処刑により死亡する収容者の数を下回っているということを意味するだけである。

(b)政治犯収容所制度の進展と目的

➢ 743
北朝鮮は、金日成の大規模粛清を受けて、秘密政治犯収容所制度を1950年代後半に開始した。この制度はソ連がスターリン治下でグラーグに設置した収容所に倣ったものである。北朝鮮の収容所はグラーグ収容所より苛酷であった。

➢ 744
収容所の規模は急激に拡大した。金日成は政敵および対立する社会主義者を粛清し、キリスト教と天道教を抑圧した。粛清の主対象の多くは処刑されることが少なくなかったが、下級役人やその関係者は姿を消して収容所に入れられた。高級官僚を含めた多数の新たな犠牲者が1970年代から1990年代に粛清され、北朝鮮労働党内の反対分子が排除され、父である金日成の死後の金正日の王朝承継のための国家の道具とされた。

➢ 745
「連座制」の原則に基づき、粛清者の親、配偶者、兄弟姉妹、子(年齢不問)などの家族も政治犯収容所に送られた。親族であっても粛清の時点ですでに他家に嫁いでいた女性のみは免除された。厳格な父系社会にあってこれらの女性たちは別の家族に属するとみなされたからである。また、妻も、即時の強制離婚により収容所送りを免れることがあった。

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キム・ガンギル氏は第12教化所の看守は、殺すことを意図した食事削減や苛酷な処罰の対象とした収容者を選び出すように命令されていたようだと述べた。同氏は教化所に政治的理由で収容されそこで死亡した収容者2名の名前を挙げた。そのうじの1名は深化組活動への反動で拘禁された者であった。

➢ 746
大地主や工場主を含めた「階級の敵」であって、韓国から逃亡した日本の植民地行政協力者も、収容所に収容された。収容所制度は、一般社会から集団全体および個人を追放することにより「偉大な首領」制度のイデオロギーと合致するよう北朝鮮社会を作り替えるという目的に沿うものだったと調査委員会は考えている。この目的は、収容者がすべての市民権を剥奪されたと見られていることからも明白である。すべての意図と目的において、収容者たちは北朝鮮の国民ではなくなっていたのである。

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➢ 747
調査委員会はまた、「階級の敵」の粛清は3世代までの子孫、つまり犯罪者の孫にまで及んだことを把握している。ごく稀に収容者が収容所内で子を持つこともあったが、この子も収容者とされた。このような世代にまたがる処罰のイデオロギー上の根拠は金日成が出したとされる指示に示されている。「階級の敵と派閥主義者は、誰であれ、3世代にわたってその芽を摘んでおかねばならない」。収容所看守および他の保安当局者は基礎研修時にこの考えを教えられた。「金日成の指示によれば…三世代の収容者を除去しなければならなかった」と元収容所看守、アン・ミョンチョルは述べている。

複数の収容所で、金日成の指示が書かれた大きな標識により、この三世代原則への注意が喚起されていた。

「私は生まれながらの犯罪者であり、犯罪者として死ぬのが運命だった。私がいた場所には2種類の人間しかいなかった。銃を持った看守と、収容者の服を来た収容者だ。収容者は生まれながらにして収容者であり、収容者として生活した。それが私たちの宿命だった。誰もその理由を教えてくれなかったが、そういうものだと思っていた。それが生き方だった。」

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親を非難することさえした。2001年、第18政治犯収容所が縮小されたときに、彼女は釈放された。親戚から、家族が処罰された理由は祖父が朝鮮戦争時に韓国に逃亡したからだと聞かされた。

➢ 748
政治犯収容所制度は、これまでもこれからも、「偉大な首領」制度へのイデオロギー的、政治的、社会的挑戦が発生しないよう防止し、その権力を維持することを目的としている。多数の収容者が、本人あるいは家族が北朝鮮の政治制度を批判したという理由で、特にその批判の矛先が最高指導者に向けられていた場合には、収容所に送られた。

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➢ 749
家族の一人が「国家機密」、たとえば支配者金一家の私生活といった政治的に重要な情報を漏洩したとして家族全員が失踪した例もある。

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➢ 750
収容所の収容者の中には、外国の「資本主義者」の影響力の遮断または国の情報独占政策を脅かすおそれがある活動を行った者もいた。過去には、朝鮮戦争による多くの捕虜および誘拐された市民のうじ、過去にじて沈黙し、再出国の権利の剥奪を受け入れることを拒否した者は収容所に入れられた。こういった朝鮮民族の多くは1950年から1960年代の日本からの帰還者であった。これらの者が外国で見聞きした反体制的な情報が広まることを恐れた当局が政治犯収容所に送った。1989年頃に東欧やソ連に留学した北朝鮮の多くの若者も同じ・運命をたどった。ベルリンの壁崩壊後の民主主義の高まりを目撃していたからである。

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➢ 751
政治犯収容所に送られる人々は後を絶たなかった。若干の組織変更はあったものの、超法規的秘密政治犯収容所がなくなる様子はなかった。近年、失踪し収容所送りとなる者の多くは脱北者、韓国の当局者や国民と違法に接触した者、またはキリスト教徒であることを表明した者である。

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➢ 752
連座制の原則による家族全員の収容は、北朝鮮の政治犯収容所の顕著な特徴である。

この原則は、反体制派の抑圧に特に有効である。北朝鮮の現体制に異議を唱えようとする者は、自分の生命だけでなく近親者全員の生命を犠牲にしなければならないからである。非政府組織、北朝鮮人権データベース・センター(NKDB)は、脱北者の多数の証言記録に基づき、832名の政治犯の収容根拠を整理した。失踪収容で一番多かったのは、本人の政治的理由(48.3%)であった。経済犯罪、行政犯罪、通常の犯罪で収容された者(7.1%)あるいは中国への逃亡(8.0%)はこれより少なかった。一方、収容者の約3分の1(35.7%)は連座制のみが理由であると思われた。

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➢ 753
近年、連座制により収容される人数は減少していると調査委員会では把握している。しかし、家族の他の者の犯罪により家族全員が収容所に送られる例もいまだに存在する。このような集団的処罰は幹部クラスが少なくなく、厳罰に処することによって国民や社会の一部の階層に対する見せしめとすることを当局が考えていると思われる。

家族は、収容所送りはまぬがれたとしても、職場や大学からの排除など、厳しい報復にさらされることがしばしばである。

チョン氏は処刑された模様である。

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(c)完全支配、拷問、処刑

➢ 754
政治犯収容所の収容者は北朝鮮国民としての諸権利を剥奪されていると考えられる。

収容所当局の完全支配下にある。収容所元看守のアン・ミョンチョル氏は、次のように述べている。

「管理所では、収容者は戸籍のある国民ではなく、処刑に法律は不要だった。国家安全保衛部の担当官が生死を決定していた。担当官の決定がすべてだった。[収容者は]すでに社会から除外されていた。」

➢ 755
調査委員会は、収容所内の収容者の大半が釈放される見込みがないことを把握している。完全統制区域に死ぬまで収監される。比較的罪が軽微で第15政治犯収容所の革命化区域の収容者のみが、収容所で何年も過ごしたのじに釈放され国民としての地位を回復するのぞみがあった。現在もそうであるかは不明である。2007年以降、第15政治犯収容所からの釈放例は報告されていない。そのため、第15政治犯収容所全体が完全統制区域となってこの収容所からの証人が出ることを防止しているのではないかと考えている者もいる。

➢ 756
収容所の物理的構造が、脱走を事実上不可能にしている。収容所は周囲を高い壁で囲まれている。高圧電流が流されている上に有刺鉄線もある。周壁には落とし穴や地雷も仕掛けられている。各収容所には多数の監視所と検問所があり、自動小銃を持った看守が配置されている。収容者は収容所内での移動が厳しく制限されている。看守が許可したとき以外には周壁に近づかないよう厳命されている。

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「新入りの収容者から、外の人々は看守と同じ食べ物を自由に食べられると聞いた。感電死や撃じ殺される可能性はあったが、[収容所の外の人]と同じ食べ物を1日でいいから食べたいと思った。」

➢ 757
収容所看守は逃げようとする者は射殺するようにと固く命じられており、射殺には報奨がでた。看守と収容者には、逃げようとすれば即決処刑するとの指示が出ていた。

このルールは組織的に実行されていた。脱走の試みへの即決処刑の対象となるかどうかは、収容者が自分のグループから離れようとしていたとか、許可なく周壁に近づいたとかいうあいまいなものだった。

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➢ 758
即決処刑その他の残酷な司法外処罰は、収容所の厳格な規則への違反、命令不服従、その他の処罰に価する行為があったとみなされた時に実施されることを調査委員会は把握した。処罰の判断は国家安全保衛部担当官による特別調査の結果次第である。死刑宣告に対して上訴しあるいは司法判断を受けることはできない。「刑」が宣告される前に、被害者は収容所内の国家安全保衛部捜査部隊による拷問を伴う長期間の取調を受けることが少なくない。

➢ 759
処刑は全収容者の面前で実行されるのが通常であり、他の収容者への見せしめとされる。犠牲者の家族および年齢を問わずその子たちも強制的に立ち会わせられる。国家安全保衛部(SSD)の担当官が処刑理由を述べ、看守で構成される射撃隊が処刑を実行する。

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➢ 760
他の種類の処罰には食事制限、追加強制労働、独房、殴打、手足切断など各種ある。

身体罰は特別懲罰区域で実施されるのが通常であり、ここは収容者の拷問にも使用される。正式な取調手続によらずに看守が個人的に拷問や非人道的、屈辱的な懲罰をその場で行う。子どもであっても最も残虐な処罰を免れない。

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➢ 761
看守は、収容者が人民の敵であり敵対的に接しなければならないと教えられていた。また、収容者に残虐な行為をしても処罰されないのが通常であることも知っていた。

「指導者は、畑で労働している収容者を集めることもあった。集められ、[武術の]技能の練習台にした。相手として収容者を使う理由は、収容者に警告し、彼らが敵であることを私たちに示すことにあった。練習相手がいなかったから収容者を集めて蹴ったり殴ったりした。収容者が生きようが死のうが気にしなかった。」

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アン氏は、収容者の逃亡防止のため、ある収容所では獰猛な犬を飼っていたと述べた。あるとき、収容者の子ども用の学校で犬たちが3人の子どもに噛み付いて殺害した。所長は犬を放したことで犬の訓練士を叱責した。しかしその後、訓練した犬が政治犯を殺害できたとして他の看守の前で称賛した。

➢ 762
政治犯収容所では、看守に加えて、収容者を指定して他の収容者の管理および監視を行わせていたことを調査委員会は把握している。収容者は作業班に分けられていた。

班長に指定された収容者は訓練の責任があり、そのときに暴力をふるうことがあった。また、収容所には情報提供者の制度があり、食料を多くもらったり看守から寛大な扱いを受けたいために協力していた。他の収容者の違反行為を報告しなかった収容者は厳罰に処すと言われていた。この原則は収容所に入ったときから子どもの収容者にも教えこまれており、親を告発することも期待されていた。

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「私が[脱走]計画を報告したのは、すべてを看守に報告することが義務付けられていたからだ。それが収容所の決まりだった。だから、その時は計画を看守に報告することが私の仕事だと思った。その年令のときはそういう自分が誇らしかった。

私は責任者にお腹いっぱいになるまでせんべいを食べさせて欲しいと頼み、それが約束された。だから計画を通告した。」

(d)性的暴行、家庭を持ち子を作る権利の否定

➢ 763
方針は収容所により異なるようであるが、連座性により収容所に送られた家族は一緒にいることが許されることが少なくなかった。しかし、調査委員会が認定したところでは、既存の収容所の収容者は新たに家族や子を持つことが許されていなかった。この方針は階級の敵を根絶やしにするという国の方針にも合致していた。ごく稀に、収容所当局は、勤勉に労働し絶対的服従を示した模範囚同士の「結婚」を許可した。許可された収容者も相手を選ぶことはできなかった。「夫婦」も一緒に住むことは許されなかったが、親密な接触を行うために年に数夜、一緒に過ごした。その結果、子が生まれることもあった。このような関係の中で生まれた子も収容者とされた。

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➢ 764
関係が許可されていないのに妊娠した女性は強制堕胎させられ、処刑や拷問を含む追加処罰が課せられた。

「私たちは全員が収容者で、何もしてあげられることはなかった。親としてできることも何もなく、親に対する愛着や感情もなかった。」

「父親が収容者であれば銃殺され、女性は苛酷な炭鉱で働かされた」

被害者の燿徳での刑期も延長された。その1つは後期堕胎であり、注射により早産した。証人自身は被害者による死胎の出産の介添えを強制された。

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➢ 765
調査委員会が知ったところでは、収容者が服従し、不処罰な環境にあったことから、看守および特権的地位にある収容者による強姦は日常茶飯事であった。女性収容者が腕力の行使により強姦される場合もあった。また、苛酷な労働の割当を回避するため、または多くの食料の供給を受けることの代償として性的関係を強要されることもあった。このような例は強姦同然である。自由な同意がない上に、収容所という環境を利用しているからである。

➢ 766
他の種類の拷問と異なり、強姦は収容所で容認されていたわけではない。国家安全保衛部担当官と看守は収容者と親しくならないように、特に性的関係を持たないように厳しく命令されていた。しかし、強姦が明るみに出ても、解雇されるのみあるいは不問に付された。一方、被害者のほうは苛酷労働に何度も割り当てられたり、特に妊娠した場合には秘密裏に処刑された。妊娠した被害者は例外なく堕胎させられるか、出産時に子が殺された。

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アン・ミョンチョル氏は、別の少女にじて語った。この少女は看守に強姦された後、第22収容所の拷問懲罰棟に送られた。焼けた火かき棒を胸に押し付けられるという拷問にかけられた。その後、炭鉱の苛酷な労働に割り当てられ、事故で両足を失った。

アン氏はさらに別の証言もしている。看守たちは飢えた収容者を相手にサディスティックかつ性的な遊びをしていた。あるとき、第22政治犯収容所の国家安全保衛部担当官が椅子に座り、釣り竿に餌として豚脂をつけ、裸の女性収容者を犬のように食べ物めがけて飛びつかせたり這わせたりした。この国家安全保衛部担当官がこの遊びを楽しんでいたことは明白で、収容者が飛びつこうとすると釣り竿を高くし、また下げて次のじャンスを与えるということを繰り返した。

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(e)飢餓、強制労働、疾病

➢ 767
第15政治犯収容所の革命化区域に収容されていた収容者の一部を除き、収容者は思想的に改善不能とみなされていた。釈放される望みはなかった。飢餓、苛酷条件下での奴隷労働により死んでゆくように仕向けられ、それは最少のコストで最大の経済的利益が得られるようにするためであった。政治犯収容所元看守アン・ミョンチョル氏は次のように説明している。

「[政治犯収容所の]収容者は人間として扱われていなかった。釈放などあり得なかった。記録は永久に消去された。苛酷労働により収容所内で死ぬことになっていた。私たちは、収容者は敵と考えるように訓練されていた。私たちは彼らを人間と見なかった。」

➢ 768
シン・ドンヒョク元収容者も同じ結論であった。調査委員会への証言でこう述べている。

「北朝鮮の権力者たちは私たちが死ぬべきだと考えていた。私たちは生きるに値しない。彼らは私たちの命を永らえさせているだけであり、生かしておくのは彼らのために生産活動を行うためであり、働きながら死んでゆく身だった」

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➢ 769
政治犯収容所の収容者たちは口に出せない暴虐非道を経験していた。しかし元収容者が強調した最も苦痛だったことは、重度の飢餓と餓死との毎日の戦いだった。収容者に与えられる食べ物は量、質、多様性のどれもが乏しく、配給される食べ物を食べるだけではすぐに餓死してしまった。食べ物がすくないため政治犯は痩せこけていた。

毎年、多数の収容者が飢餓やペラグラなどの栄養失調疾患で死亡した。ペラグラは発疹、精神および消化器系の障害、精神機能低下を特徴とする。収容者が長期間生き残るためには虫、ネズミ、野草を取るか、看守や家畜向けの食料をかすめとる方法を見つける必要があった。

➢ 770
調査委員会が知ったところによれば、収容者の飢餓は北朝鮮の食料不足によるというよりは意図的な方針によるものである。北朝鮮の食料事情が今よりよかった時期においても、収容所は常に飢餓状態にあった。調査委員会が聞取調査を行った元看守その他の保安担当官によれば、飢餓は収容者を弱らせて支配しやすくするため、また、苦痛を強めるための意図的処置であった。

遅れれば食べ物を減らされるからである。骨折したときにも、食べ物が減らされないように走って行った。食べ物はごくわずかだったので一家は蛇やネズミを取って子どもたちの命をつないだ。キムさんはこう語っている。

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「赤ちゃんのお腹はむくんで膨らんでいた。蛇やネズミを調理して赤ちゃんに与えた。ネズミを捕まえた日は特別のごじそうとなった。生きるためにあらゆるものを食べなければならず、手に入るものは何でも食べた。飛ぶもの、地面を這うものなどなんでも。野原の草も食べた。これが収容所の現実だった。」

収容されていた1980年代には北朝鮮の食料事情は悪くなかったにもかかわらずである。

「当時の経済状況はきわめて安定していたので、[国の食糧事情は]大丈夫だと思っていた。しかし、政治犯に対しては月1回、一握りのとうもろこし粒が与えられるだけだった。15日で食べつくし、生きるために野草を煮てポリッじ・にした。健康な男性であっても3ヶ月で栄養失調になった。栄養を取るため、ネズミ、蛇、カエル、虫など、目に入ったものは何でも食べて蛋白質を補給した。収容されてからの最初の3ヶ月、この3ヶ月が非常に重要だ。私はこの3ヶ月で栄養失調になり、死にかけた。しかしそこにいた子どもたちが野原でネズミを取って私を助けてくれた。

エリート、知識人、高い地位にいた者は真っ先に死んでいった。[ネズミを]思い切って食べられなかったからだ。しかし収容所の外でも辛い生活を送っていた者たじや本能に従って行動する子どもたちは生存率が高かった。」

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➢ 771
収容所の方針として、反抗した収容者には短期間で餓死する程度にまで食べ物の量を減らした。調査委員会が聞取調査を行った元収容者は、収容所の食べ物は労働成績不良、作業中に怪我したこと、収容所規則への違反の罰としてしばしば半減されたと証言した。元担当官は、かかる食べ物減らしは看守の研修時に配布された指示書に詳細に記載されていたと述べた。

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➢ 772
収容者が食べ物の削減によりやむを得ず行った行為、例えば、看守の食べ残し、動物飼料、収容所での育成作物の盗みなどは、即決処刑を含めた厳罰に処せられた。

「週2回程度、[看守が]子ども一人を選び、何かを隠し持っていないか検査していた。この子は不運にも検査されることになった。ポケットから粒が見つかり、看守がどこで手に入れたかを聞いた。女の子は道で拾ったと答えた。看守は木の棒で叩いて言った。そんなことは教えていない。私の教えに背いたな。女の子は激しく叩かれて気絶し、私たちが母親のもとに連れてゆかなければならなかった。翌日、学校に来なかったので、死んだことが分かった。」

シン氏はまた、収容者たちが床に落じている草や食べかすを看守にみつからないようこっそり食べていたと語った。

「食べているところを看守に見つからないようにしなければならなかった。床に落じている食べかすを食べる許可を看守から得なければならないこともあった。ネズミはたくさんいた。いくらでもいた。収容者たちはネズミを追いかけて捕まえていたが、看守の姿があるときには、仲間のうじでも成績が最も良い者がネズミを捕まえて食べる許可を看守に求めた。看守の機嫌がよいときには許可されたが、ネズミ捕獲が許可されないこともあった。捕まえたネズミが看守に見つからないよう、パンツの中に隠すこともあった。」

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「入れられたあと、戻ってくる者は多くなかった。独房では殴られ、1食30グラム、寒さも加わって収容者は弱っていった。[入るときには]体重50キロあった者が[独房から]帰ってきたときは20キロになっていた。」

➢ 773
調査委員会が知ったところによれば、意図的な飢餓に加え、収容者たちは生存に必要なものも奪われていた。冬には温度が摂氏マイナス20度にも達することがあるにもかかわらず、窓ガラスや十分な暖房もない掘っ立て小屋に住まわされていることが少なくなかった。毛布、スープ、生理用ナプキン、その他の衛生道具や調理器具は、めったに支給されないか、まったく支給されなかった。

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➢ 774
収容所にはごく初歩的な治療施設しかなく、医療品、有資格担当者が不足し、重症者に死に場所を提供する程度でしかない。衛生および治療施設の圧倒的不足により伝染病が発生しやすく、飢えと疲労に苦しむ多数の収容者が死亡した。

冬および早春(寒さが厳しく食料がない時期)には多数の死者が出た。

キム・ヘスクさんは収容所で子どもを2人産んだが、妊娠に関する出産前その他の医療ケアは受けなかった。最初の子を産んだときには一人きりで山中で食べられる草を食べていた。生活区域に戻るときには生まれたばかりの子をぼろぎれと葉で包んで自分の体を引きずるようにして戻った。

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➢ 775
政治犯収容所には工場、農場、鉱山、伐木場が併設されており、特に、石炭、軍用衣料品、消費者向け製品を製造していた。また、収容者による消費量を超える食料も生産していた。高品質の肉などは看守向けあるいは販売用とされた。道路と鉄道を使って製品が市場に出荷されていた。製造施設は最低コストで最大の経済利益を得られるように管理されており、収容者の健康や生存は顧慮されなかった。すべての収容者が強制労働に服した。重病であっても、1週間毎日12時間以上労働しなければならなかった。強制労働を免除され(あるいは時間の短いシフトに割り当てられる)のは、重要な祝日と保守作業日のみであった。

➢ 776
収容者が最もおそれた労働は採鉱と伐採で、これらは一部の収容所内にあった。ここでは、簡単な道具を与えられただけで、危険な環境で作業しなければならなかった。

収容者の弱った身体と安全措置の欠如から死亡事故が頻発した。

➢ 777
収容者は、毎日のノルマを達成しなければ殴打、長時間労働、食料カットに曝された。

作業班全員が一斉に懲罰されることもよくあった。このことは、作業班長が仲間の収容者をへとへとになるまで追い使う動機となった。作業が遅れている収容者仲間を作業班長が殴ることもあった。

➢ 778
第15政治犯収容所の革命化区域では、高齢の収容者は労働の必要がなかったが、食べ物は少ししか配給されなかった。ただし、完全統制区域では、高齢の収容者は死ぬまで働かせられたようである。

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➢ 779
5歳以上の子どもは農作業や開墾などの強制労働に従事させられた。また、国家安全保衛部(SSD)担当官による数時間の基礎教育があった。15から16歳の子どもはフルタイムで強制労働させられ、採鉱などの肉体的に苛酷な作業も免除されなかった。

収容所当局は「我々を[農耕用]家畜と同じ・だと考えており、そのため教育する必要を感じ・なかった」のであろうと語っている。シン氏は15歳のときに大同江の水力発電ダム工事に割り当てられた。あるとき、大人3人と子ども5人が崩落したコンクリート壁に押しつぶされた。作業員たちは作業を続けなければならず、死体を処理できたのはシフトの終わりのときだった。シン氏は16歳から幸いにも豚小屋担当となった。これは動物飼料をこっそり入手できる可能性がある作業だった。

この証言者の推定によれば、この鉱山だけで毎年200人が死亡した。

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(f)収容中の死亡と死者の尊厳尊重の欠如

➢ 780
政治犯は戸籍を抹消されたものとみなされていた。死亡しても収容所外の家族に遺体が返されることはなく、文化的伝統や死者の尊厳は顧慮せずに処理された。収容所外に家族がいる場合にも、死亡通知はなされないのが通常であった。

「死体の上に他の死体を重ねて埋めることもあった。穴を掘っていると骨が出てくることがあった。[収容所内に]鉱山があれば、周囲の丘や山は墓地のように使われた。政治犯に墓地というものはなかった。」

「ブルドーザーが地面を掘ると、人の体が最後の安息地から再び現れてきた。腕、足、脚。ストッキングをはいたままのものもある。それがブルドーザーの波に飲み込まれていった。私は恐怖を感じた。友人の一人は嘔吐していた…看守は穴を堀り、数名の収容者に、表面に出ている死体や体の一部を投げ入れるよう命じた。」

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➢ 781
調査委員会が聞取調査を行った元収容者および元看守たちは、収容所生活では常にそこに死があったことに同意した。収容所周囲の秘密保持が厳重であるため、何人の収容者が処刑され、労働により死に至り、あるいは飢餓や伝染病で死亡したかはっきりしない。しかし、外の世界はわずかに知り得たことから収容所の恐怖を知っており、調査委員会が内輪に見積もっても55年以上前の収容所設立以来、何十万人もが死亡したとみられる。

4.通常刑務所での重大な侵害

➢ 782
国家安全保衛部(SSD)が運用する政治犯収容所のほか、北朝鮮には大規模な通常刑務所も多数存在する。これらの刑務所の存在は刑法にその根拠があることから分かる。

➢ 783
通常刑務所はほとんどの場合、人民保安省刑務所局が運用している。これらは検察局による監督を受ける。重大犯罪者は通常の刑務所(教化所と呼ばれる。文字通り教化を行う場所である)に送られる。これより程度が軽い犯罪の場合は数ヶ月から2年の「労働訓練施設」(「労働鍛練隊」)に送られる。また、未成年者やストリートじルドレン向けの各種の拘禁閉鎖施設もある。

➢ 784
北朝鮮から国連人権委員会への2001年の報告によれば3つの刑務所の収容者数は1998年末が1,153名、1999年末が3,045名、2000年末が1,426名である。2005年の北朝鮮から女性差別撤廃委員会(CEDAW)への報告によれば、2005年3月時点で、有罪とされて改造施設に送られた女性は40人のみであった。

➢ 785
証言その他の入手情報から調査委員会が知ったところでは、これらの人数は相当に過少であり、刑務所制度の実態を完全に示しているとは言えない。存在する各種刑務所の数および一部の刑務所の収容者数の報告から、通常刑務所の収容者数は7万人以上とみられる。

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➢ 786
北朝鮮の主張によれば、その刑務所は矯正施設であり、労働を通じて矯正を行うものである。さらに北朝鮮によれば、関連規則が厳格に適用されており、刑務所には寝室、浴室、食堂、作業場、研修室、図書室、乳幼児室、その他の施設があるほか、自然照明、電気照明、換気、暖房がある。収容者には食事、飲料水、衣服、ベッド、医療が提供されている。医師が健康状態を確認して適切な治療を無料で行っている。矯正施設の担当官は特別な訓練を受けており、収容者の拷問や侮蔑的取扱は禁止されている。

労働時間は1日8時間で収容者には作業の数量と質に応じて賃金が支払われている。本、雑誌、新聞を読むことができ、映画やテレビを観ること、ラジオを聞くこと、ゲームをすること、スポーツをすることもでき、家族の面会や家族への連絡も可能である。北朝鮮はこれらに加えて、女性収容者はその身体状況に応じて軽労働につかせていると主張した。

➢ 787
外部からの訪問が認められている模範的刑務所にじては、これらの基準はある程度満たされているようである。しかし、数十人の元女性収容者および直接に他の刑務所を見ている元担当官から調査委員会が得た証言では、収容者の大半の現実は厳しい。

政治犯収容所での様式と多くの点で類似する意図的飢餓、強制労働、非人道的生活条件、拷問、即決処刑の様式も存在する。ただし、違反の程度は小さいようである。

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(a)通常の刑務所(教化所)

➢ 788
通常の刑務所(教化所)の多くの収容者は暴力犯、経済犯など、一般的な犯罪者である。刑の中には比較的軽微な犯罪に対して不当に長期の禁錮もある。しかし、厳罰は政治的に重要な記念日の恩赦によりある程度緩和されている。恩赦により多くの収容者が早期釈放され、政府の寛大さに感謝するのである。

➢ 789
教化所の収容者の相当数が、自分の人権を行使したことを理由に収容されている。許可なく中国との国境を越えようとした者も、常習犯あるいは出身成分が良くない社会階級の出身者であれば教化所に送られることがある。北朝鮮ではキリスト教が広まっており、キリスト教の一般信者のうじ「成分」が良い者が通常の刑務所に収容される例が増えている。教会指導者、積極的に活動している宣教師、その他の犯罪者の中でも幹部にあたる者は今後も政治犯収容所に送られるものとみられる。

(ⅰ)通常刑務所の規模と所在地

➢ 790
通常刑務所(教化所)の名称、所在地、番号は比較的よく把握されている。政治犯収容所と同様、当局は番号を割り振っている。

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- 咸鏡北道ジョンゴリの第12通常刑務所(教化所)は最大級の刑務所であり、おそらくもっとも記録が多い通常刑務所である。その収容者の多くは中国の近くから強制退去させられた者または国境付近で活動しているキリスト教教会と接触した者である。この刑務所の収容者数は3,000から4,000人と推定され、2009年からは別棟に約1,000人の女性収容者もいる。第12教化所には銅山、伐採所、農場がある。

- 第1通常刑務所(教化所)は平安南道价川市にあり、約2,000名の男女の収容者がいる。この刑務所には衣服、繊維の工場があり、その生産物はアじ・ア諸国に輸出しているとみられる。

- 第4通常刑務所(教化所)は、平壌の住人および一部の軍人向けである。主要施設には4,000人が収容されていると推定されており、所在地は(平安南道)江東郡サムドゥンリである。平壌にも複数の支所がある。ヒョンサン支所はモデル刑務所として外部に公開されることもある。しかし、それ以外の刑務所施設は過剰収容状態である。2008年の刑務所全体の収容者数は男女合わせて12,000人と報告されており、予定収容数の4倍である。この刑務所は炭鉱と各種工場を有している。

- 黄海北道沙里院市の第6通常刑務所(教化所)は3つの施設で構成されている。

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ドリムの施設は外国人に公開されている。収容者数は3,000~4,000人で、農作業や衣服、靴の製造に従事させられている。

- (咸鏡南道)咸興の第9通常刑務所(教化所)は日本の植民地時代にすでに建設されていた。この教化所は男性刑務所(推定1,500人)と女子刑務所(500人)で構成されている。この刑務所は炭鉱を運営しているほか、ミシン製造、家畜飼育も行っている。

- ジェウンサン(平安南道)の第11通常刑務所(教化所)は山岳地帯にある。小さな棟が集まっており、農業、家畜飼育、塩製造の経済活動が中心である。報告によれば、男女収容者3,000~5,000名が収容されている。

- (咸鏡南道)栄光郡五老の第22通常刑務所(教化所)は小規模施設で、2006年に労働訓練施設から通常刑務所に格上げされた。男女の収容者のほとんどは農作業をさせられている。

➢ 791
存在すると報告されている下記の教化所にじては情報が少ない。

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- (江原道)元山市チュクサン村の第88通常刑務所(教化所)には約2,000人の収容者がいると言われている。2007年からは女性の収容者も収容している。

- (平安北道)東林郡の第2通常刑務所(教化所)

- (平安北道)新義州の第3通常刑務所(教化所)

- (慈江道)江界市の第7通常刑務所(教化所)

- (平安北道)天摩郡の天摩通常刑務所(教化所)

- (江原道)川内郡の龍潭通常刑務所(教化所)

➢ 792
調査委員会は、外界に知られていない他の通常刑務所(教化所)の存在を否定できない。

(ⅱ)収監前の不公正な裁判

➢ 793
保安当局が裁判なしに通常刑務所に送致する例も時折報告されている。しかし、通常刑務所(教化所)の収容者の大半は裁判で有罪宣告を受けて有期刑に服している。ただし、通常の裁判による最も基本的な保障を受けることなく有罪判決を受けた収容者は恣意的抑留の被害者とみなさなければならない。司法の独立と公平がない司法制度における司法手続では被告人への起訴がそのまま有罪として受け入れられているのが通常である。

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➢ 794
北朝鮮憲法第164条は被告人に防御権を認めている。実際の裁判では証拠開示手続が実施されないことが少なくない。被告人は犯罪を自白して反省することが期待されている。

➢ 795
朝鮮最高裁判所のある上級法務官は、訪問した外国代表団に対し、北朝鮮での無罪推定にじて何度も下記のように述べている。

「ほとんどの被告人は、警察の捜査により起訴前に犯罪が明らかになっている。裁判所に送られたということは無罪ではないということだ。」

➢ 796
刑事訴訟法は、通常は国選である弁護人を付ける権利を定めている。しかし、調査委員会への証人の多くが、国選弁護人は沈黙しているか、あるいは裁判所と検察官に加担して行為を避難する。被告人の「成分」が良いことを理由に寛大な処置を求めることがせいジェいだと述べている。

➢ 797
北朝鮮憲法は、裁判の公開を定めている。しかし刑事訴訟法第271条は、広範な例外を認めている。例えば、「悪影響がある場合」には裁判手続を非公開にできる。実際には、当局から疑惑を持たれないよう、公式に召喚されたとき以外には裁判を傍聴しようとするものはまずいない。

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裁判は裁判所内の狭い部屋で行われ、裁判官1名、検察官1名、被告側弁護人1名、陪審員である市民2名がいた。裁判官はキム氏に有罪認否を尋ねなかった。

「北朝鮮ではそれは考えられないことだ。裁判官が[有罪認否を]尋ねることはなく、簡単に判決を出す。そして何年の刑と言い渡すのである。有罪認否など決して聞かない。」

キム氏は裁判前に国選弁護人と話すこともできなかった。手続中も弁護人は実質的な質問をすることはなく、防御しようともしなかった。家族にパイロットや陸軍士官がいるかとキム氏に聞いただけだった。いれば寛大な処置を受けやすくなるからだ。

裁判官1名、検察官1名、被告弁護人1名がいた。被告弁護人はキム氏と何も打じ合わせをせず、主張もしなかった。弁護人は手続の終わりに、キム氏は若く孤児であるとして寛大な処置を裁判官に求めただけだった。

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➢ 798
前記の韓国の大韓弁護士協会による2012年の脱北者調査では刑事裁判で自分の弁護人に裁判前に会ったのは回答者の19%にすぎなかった。弁護士が役だったと考えているのは5%であった。検察官と被告弁護人の双方が立ち会った裁判は57%のみであった。裁判の81%で、裁判所は被告側証人を呼ばなかった。北朝鮮刑事訴訟法第330に基づいて最終陳述を行うことができたのは54%のみであった。回答者の約半分(46%)が非公開裁判を受けた。

(ⅲ)拘禁中の非人道的状態

➢ 799
北朝鮮刑法第30条により、教化所の収容者の市民権は一時停止されているとみなされる。しかし、政治犯収容所の収容者と比較すると、通常刑務所は検察局の監督を受けることから、ある程度の保護は受けられるようである。また、収容者は月1回、家族と面会できることになっている。ただし実際には家族が収容者に面会するには刑務所当局に賄賂を支払わなければならず、生存に必要な食べ物その他を差し入れなければならない。

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➢ 800
調査委員会が知ったところでは、北朝鮮の刑務所は過密状態が一般的である。トイレは共同で、めったに清掃されない。シャワーはなく、収容者は時々体を洗えるだけである。石鹸その他の衛生道具は与えられないことが少なくない。朝鮮の厳しい冬に、暖房が不十分である刑務所が多い。収容者は自分で衣服や毛布を用意しなければならない。用意できない場合は使い古しが与えられ、これにはシラミ、南京虫、その他の害虫がいる。

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➢ 801
政治犯収容所と同様、通常刑務所も炭鉱、工場、農場、伐採場を収容者の強制労働で運営していた。これらの事業からの収益が収容者のために使用されることはなかったとみられる。収容者が生産する食べ物の数量も種類も、収容者が与えられるものより多かった。国際法は、適法に有罪とされた者の改善の目的で収容者が自主的に行う労働を禁止していないが、通常刑務所の収容者が強制されている種類の労働は、ほぼすべて、国際基準が定める違法強制労働にあたる。収容者が正式な裁判所手続によって有罪とされることは稀であり、公正さの基本的保障もない裁判で懲役が宣告されるのが通常である。収容者の強制労働は政治問題としても捉えなければならない。支配者である金一家の業績と教えに重点を置いた毎日の強制的思想学習と体系的に組み合わせられているからである。これに関して、調査委員会が知ったところでは、北朝鮮の刑務所は人権的な意味で収容者の矯正を目指すものではなく、服従させてその指導者の下の政治制度への絶対的服従を再確立するためのものである。

➢ 802
かかる所見は、労働条件がきわめて非人道的であるため労働が適法な矯正目的であるとは言えないという事実によっても裏付けられる。収容者たちは食料不足に苦しみながら一週間毎日休みなしで9~12時間の作業に無賃金で従事させられている。通常であれば機会や作業用家畜で行うべき作業(耕す作業や石炭の取り出しなど)を北朝鮮の収容者は簡単な道具で、手作業でさせられている。1日のノルマを達成できず、あるいは誤って刑務所の財産を破損した収容者は拷問や非人道的懲罰を受け、これには殴打、独房入り、すでに少ない食べ物のさらなる削減などがある。作業の安全性がほとんど考慮されないため、死亡事故も多い。

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この元収容者は、手や服が石灰岩破砕機に巻き込まれて圧死した収容者を何人も見た。空気はホコリだらけでよく見えなかった。悲鳴が聞こえて機械に駆けつけると破砕機からぐじゃぐじゃの体が垂れ下がっていた。別の証人もほぼ同じ・光景を見ていた。それはジョンゴリの9第12教化所での出来事だった。

➢ 803
2005年の女性差別撤廃委員会への報告によれば、北朝鮮は、女性収容者は衣類、靴、バッグなどの製造に従事しているだけで賃金も支払われていると主張している。

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調査委員会は通常刑務所で女性収容者が鉱山労働に従事させられているとの情報は入手していないが、多数の女性収容者から、賃金なしで森や農場で重労働させられたとの信頼できる報告は受けている。

毎日夜10時まで薪を集めた。作業が遅い収容者は殴られた。収容者には古着しか与えられず、靴が合わなかったためまともに歩けなかった。作業に出かける班の仲間に遅れると看守が首に縄をつけて引っ張った。

しかし、農場で生産された食料は看守が食べた。与えられた食べ物が少なく、空腹なため、野草、きのこ、樹皮などを食べた。他の収容者が食べ物を盗んだとして殴られているのを何度も見た。

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➢ 804
通常刑務所に入れられた新人のほとんどは、その前の拘置所や警察の一時収容施設での数週間から数ヶ月に及ぶ取調での食料不足から、すでに体が弱っており、飢えていた。教化所でも飢えは続いた。通常刑務所で出される食事は、収容者が割り当てられた強制労働と収容者の行いにより変わった。辛い強制労働に従事させられているにもかかわらず、収容者達に与えられる食事は1日に300グラム程度のとうもろこし粥または豆ご飯のみであった。この量は、国連が計算した北朝鮮成人の最低必要カロリーのごく一部にすぎない。従って、他の食べ物を見つけられない者は餓死した。通常刑務所の多くの収容者は毎月の面会で家族が差し入れてくれる食べ物で生き延びた。

面会がない者はネズミや虫を捕り、草や野草を食べ、または動物飼料を食べる方法を工夫した。

➢ 805
元看守によれば、食べ物を少ししか与えないのは意図的な方針であり、収容者を弱らせて支配しやすくすることが目的であった。このことは、収容者の強制労働により生じた余分な食べ物その他の資源から収容者に十分な食べ物その他の生存に必要な物が支給されてはいないことからも裏付けられる。

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ほとんどの人が衰弱した。与えられる食べ物は1回の食事に80グラムに満たず、違反行為があったりミスをしたときにはさらに減らされた。豚でも食べないようなもの、例えば腐ったきゅうりなどが与えられた。腐ったきゅうりを煮たものが出された。食べるのを拒否すると処罰された。罰として50グラム以下[の食べ物]を与えられたこともあった。

「私は自力で生きなければならなかった。だから何でも食べた。トカゲ、ヘビ、ネズミ、爬虫類などなんでも。春には草も食べた。しかし食べる草を間違えると毒にあたり体がむくんだ。いろんな草や根を食べた。」

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あるとき、この証人の作業班は畑に植える苗を育てるため小さな鉢に種を植えさせられた。飢えた収容者が種を食べないよう、看守は種に糞尿をかけた。それでも収容者たちは食べようとした。そこで看守は収容者たちに自分の収容者番号を言わせながら収容者たちの間を歩きまわった。誰も種を噛んだり飲み込むひまがなかった。収容者が番号を言わなければ看守はくるみ大の石を口に押し込み、食べられないようにした。

(ⅳ)拷問と処刑

➢ 806
通常刑務所の収容者には厳格な規則があり、看守への絶対的服従を示さなければならなかった。命令への不服従にはさまざまな懲罰が課され、食事カット、睡眠剥奪、苛酷労働への配置、狭小な独房などがあった。複数の通常刑務所の元収容者たちが、独房はきわめて狭いため、横たわることも立つこともできなかったと証言している。独房での1日の食事はコメまたはとうもろこしの粥100グラムのみにされた。

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➢ 807
看守はその場で収容者を懲罰することも少なくなかった。看守または看守の代理としての班長による重大な身体的虐待も、責任を問われることはなかった。政治的に機微な犯罪による収容者が選び出されて懲罰が課されることもよくあった。

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➢ 808
北朝鮮の通常刑務所は通常、最上部に有刺鉄線がある高い壁で囲まれており、高圧電流が流れている。最近、構内監視カメラが導入されて刑務所内を監視している。脱走しようとした場合には看守はその場で殺害することができる。生きたまま捕らえられたものはきわめて苛酷な懲罰を受ける。数年前まで、脱走を試みた収容者が即決処刑されることがよくあった。今もこのような処刑が行われているかどうかは不明である。

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(v)強姦と強制堕胎

➢ 809
女性収容者は増加している。中国に逃亡して送還させられた者の多くが女性だからである。男女の収容者は国際基準に従って隔離されるのが通常である。しかし、女性収容者に男性看守がつくことも少なくない。看守と収容者の性的接触を刑務所当局は認めていないが、看守と収容者の立場の違いから看守が収容者の暴行および強姦を行っても罰せられないことが多い。強姦の例としては、看守が刑務所の高圧的環境を利用して、食料その他の収容者が通常刑務所で生存のために必要とするものと引き換えに性的交渉を要求することがある。北朝鮮刑務所での強姦件数を把握することは困難である。犠牲者の多くが強姦されたことを社会への恥ととらえて明らかにしようとしないからである。

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あるとき、女性収容者の一人がこのような性的接触にじて他の収容者に話した。

看守はこの収容者を屋外で跪かせ、頭から爪先までを厚い雪の層で覆い、グロテスクな人間雪だるまのようになった。

過去には、収容時にすでに妊娠しておりまたは収容中に妊娠した収容者は強制堕胎させられた。これには、妊娠最終期で、胎児がすでに自力で生存可能になっていた場合も含まれる。一部の刑務所では新人女性収容者には血液検査を実施して妊娠を確認していた。最近では、いったん刑務所を出て出産し、家族が子を養育し本人は刑務所に戻る例も増えている。

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(ⅵ)治療の欠乏、収容中の死亡、死者への敬意の欠乏

➢ 810
調査委員会が知ったところによれば、北朝鮮の通常刑務所では毎年数千人が死亡している。死因は故意の飢餓、疾病、処刑、作業中の事故や殴打による負傷である。

➢ 811
飢餓および関連する疾病が死亡の主原因である。多くの刑務所で、当局は死亡が近い者を確認する目的で飢餓度検査を定期的に実施していた。この方法で飢餓度検査をしていたにもかかわらず、当局は飢餓の原因である方針を変更しようとはしなかった。

危険段階にあると判断された者は作業班から外された。飢餓で危険状態にある収容者の死亡を防止するための有効な治療は行われなかった。助からないと判断された収容者は、まもなく死亡すると考えられ、釈放されて家族に引き渡されることもあった。

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「皆が栄養失調で苦しんでいた。刑務所では、裸にして臀部を見ることで身体的に衰弱しているかどうかを判断した。臀部の空隙が大きいと、看守はその間に拳が入るか確認した。それが確認方法だった。立っている者が衰弱1級、その横の者が2級、三番目が3級と宣言された。これらの収容者と同程度の衰弱度と判断されれば刑務所から出られなかった」。

➢ 812
衰弱した収容者の多くが感染症により死亡した。過密房での劣悪衛生状態は感染症の発生に理想的な場所である。通常刑務所で伝染病は頻繁に発生する。刑務所には通常、軍医が配属されており、知識のない収容者が補助する。医務室には治療のための医療器具や医薬品が不足している。重篤になった収容者は家族から差し入れられた医薬品があったときしか生き延びられない。

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➢ 813
刑務所で死亡した者の遺体が家族に返されることはない。大きな墓穴に投げ入れられるか、まとめて焼却され、死者への敬意はない。家族には死亡が知らされないことも少なくなく、面会に来たときに死亡したと告げられることが多い。

「体重が減りはじ・め、起き上がることができなくなり、手づかみで食べるようになった。私には何もできなかった。あげられる薬がなかった。彼女が死んだとき、彼女は目を閉じられなかった。目を開いたままで死んだ。私は心から泣いた」

チさんは親友の遺体に瓶を結びつけ、中に紙を入れた。紙には名前、誕生日、死亡日を書いておいた。いつか発見されるかもしれないと。

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この元収容者は栄養不良、伝染病、作業中の事故により毎年800人以上が死んだと見ている。

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(b)短期強制労働収容所

➢ 814
軽罪犯は短期収容所に送られて1ヶ月から1年にわたり収容されるのが通常であった。

例えば、中国から送還され、滞在期間が短期であり教会や韓国民との接触はなかったと国家安全保衛部が認定した者はこのような収容所に送られるのが普通である。「成分」が良い者が中国製携帯電話を使用しあるいは外国映画を観た場合には、このような施設に有期で送られた。

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➢ 815
男女は国際基準に従って隔離されている。施設によっては子どもの収容者もいる。しかし、子どもたちは軽作業に割り当てられるのが通常である。

➢ 816
短期強制労働収容所の大半は人民保安省および地方当局が運用している。把握されている短期強制労働収容所のうじきわめて一部のみが国家安全保衛部(SSD)および朝鮮人民軍(KPA)保衛司令部により運用されている。

➢ 817
短期収容所は通常、「労働鍛練隊」(労働訓練所)と呼ばれている。こういった収容所は1990年代から設置が始まった。それは金正日が、全国レベルで地方当局が軽罪犯の矯正施設を建設せよと命じたからである。現在の刑法第31条は、労働訓練処罰を見越して、これらの収容所に法的根拠を与えている。

➢ 818
北朝鮮人権データベース・センターの2012年の大規模調査により、人民保安省が運用する労働訓練所が49か所、朝鮮人民軍保衛司令部が運営する労働訓練所が2か所あることを把握した。これらの施設がすべての郡にあることを考えれば、実数はもっと多いと考えられる。

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➢ 819
また、人民保安省は道や主要都市で教養所と呼ばれる施設を運営している。軽度の「反社会的行為」を含めた中程度の犯罪者はこれらの収容所で強制労働をさせられることが少なくない。人民保安省と国家安全保衛部の収容施設(尋問拘留所)も北朝鮮では処罰の場所として使用されているが、これらには法的根拠はないとみられる。

➢ 820
3種類の短期収容施設の収容者の自由剥奪は、国際法が義務付けている有罪認定または裁判所の決定に基づいていないのが普通である。有罪は政府の行政機関の一部であるMPSやSSDが決定している。まれに、労働改造所や労働訓練所の収容者が裁判を経ていることもあるが、その場合でも、前述のようにその内容はきわめて不公正である。従って、収容者が裁判所によって適法に有罪とされたとはいえない。彼らは、国際法が定義する恣意的拘禁および違法な強制労働の被害者である。

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➢ 821
短期強制労働収容所は、通常刑務所から明確に異なり、収容者が面会を受けられる頻度が高い。警備もそれほど厳重ではない。脱走を試みて即決処刑された例はほとんど報告されていない。

➢ 822
しかし、他の点にじては、短期収容所の収容者は通常刑務所(教化所)の収容者と同様な侵害に苦しめられている。非人道的衛生状態の中で強制労働に従事し、食べ物が少ないため飢餓となる。作業成績が悪い収容者や看守に反抗した収容者は殴打され、激しく殴打されることも少なくない。短期収容所では、治療が行われることがあったとしても、ごく稀である。病気になった収容者は地元の病院に連れてゆかれる。多数の収容者が飢餓、疾病、殴打や作業中の事故による負傷で死亡している。死期が近いと判断された収容者は家族に引き渡されることも多い。こうすることで収容所は責任を負わず、死体を処理する必要もない。労働訓練所での強制堕胎にじての証言も多い。

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「収容所から多くの、とても多くの死体が運びだされた。[北朝鮮から]出国しようとした人はまっさきに死体となった。」

「私たちにはトウモロコシを主とする食べ物が与えられたが、命をつなぐのにやっとだった。若い男性収容者にとっては[与えられた食べ物は]全然足りず、男性収容者は農作業中に虫や蛇を捕まえた。胃袋に何か入っていることを感じ・るため、生きたまま食べた。」

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同じ証人は、ある女性が田んぼで取った生米を食べているところを見つかったと語った。房に連れてゆかれて殴られた。証人が彼女を助けようとしたところ、証人も殴られた。

下痢は蔓延しており、同房の収容者が治療を受けられずに死んだ。被害者の身体はやせ衰えていたため、看守は簡単に折り曲げて運ぶことができた。

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5.処刑

➢ 823
北朝鮮には今も死刑が存在する。身体刑にじては北朝鮮刑法第27条に定めがある。

北朝鮮は詳細な統計を明らかにしていないが、調査委員会が入手した体験者その他の証言から、調査委員会は北朝鮮では多数が毎年処刑されていることを把握している。そのほとんどの場合において、ICCPR第6条が要求する死刑に関する厳格な要件と保障措置は守られていない。

➢ 824
北朝鮮刑法の2004年改正により、北朝鮮で死刑にあたる犯罪は減少した。しかし、刑法に残っている死刑にあたる犯罪は広範であり、死刑を限定したICCPR第6条が定める「最も重大な犯罪」にはほど遠い。また、死刑に関する一部の罰条の定義がきわめて広範かつ曖昧であることから、人権の行使を抑圧されやすい。例えば北朝鮮刑法第59条は、反国家目的でデモに参加するということを重大な事件として死刑を認めている。また、重大な事件として、「帝国主義者の支配下にある朝鮮国民が国家解放のための闘争あるいは国家再統一のための闘争を妨げ、または国家権益を帝国主義者に売り渡すことによって国を裏切ること」を挙げている。

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➢ 825
2007年以来、死刑となる犯罪が再び増加した。2007年9月、最高人民会議常任委員会は、刑法に新しい犯罪を追加する法律を定めた。新しい犯罪のうじ死刑があるのは16である。この法律によれば、貴金属の密輸や国家財産の意図的破壊などの「きわめて重大」な経済犯罪には死刑が科される。特に問題となる点として、2007年法律には「包括」条項があり、複数の重大犯罪を犯し、裁判所が矯正不能と判断したときには死刑に処すことができる。

➢ 826
2009年、人民保安省は北朝鮮政府を代表して、外国通貨での各種違法取引を禁止する布告を出した。この布告には死刑を含めた厳しい刑事罰が含まれていた。同年、刑法第64条が定める「反国家目的での不忠な破壊行為」にも死刑が拡大された。

(a)中心的な場所での公開処刑

➢ 827
北朝鮮ではほぼすべての国民が処刑を目撃している。処刑は中心的な場所で執行されることが多いからである。多くの場合、処刑が執行される地域の全住民が、子どもを含め、立ち会いを強制される。また、スタジアムや大きなホールで、選ばれた者の面前で執行されることもある。

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➢ 828
北朝鮮は、処刑執行の統計を開示しないのが通常である。北朝鮮は、国連人権委員会の問い合わせに対する2001年10月の回答で、1998年から2001年の死刑は13件のみであり、最後の公開処刑は1992年10月だったと述べている。

➢ 829
韓国統一研究院の報告では、脱北者の証言に基づき、2005年から2012年の公開処刑件数は510件としている。中国国境まで距離がある地方からの脱北は少ないことを考えれば、実際はもっと多いと思われる。

➢ 830
北朝鮮の処刑は銃で複数回射撃するのが通常である。例外として、被害者が縛り首になることもある。ここ2年ほど、当局が自動小銃を処刑に使用することが増えた。処刑の恐怖感を高めることが目的であると推測される。特に子どもや犠牲者の家族にとって、このような殺害現場を見たという経験は恐怖に満じており、見させられた者もICCPR第7条に反する非人道的かつ残忍な取扱の被害者である。

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「まるで遠足のように公開処刑場所に連れて行かれた。誰も、党への反対や金日成の思想への反対をしようとは思わなかった」

➢ 831
社会秩序と国家管理の破壊を防止することを狙った金正日の命令に従い、1990年代の北朝鮮では公開処刑が広く実施された。国営工場からの物資の横領や生きるための食料窃盗など、経済犯罪により多数が処刑された。多くの場合、被告は裁判なしで即決処刑された。被害者の遺体は見せしめとして処刑場所にしばらく放置されるのが通常であった。飢饉が起きたのは北朝鮮で多くの恣意的処罰が行われていた頃であった。

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「国に属するとされている財産を盗んだ人、他人の財産を盗もうとしているところを見つかった人は公開処刑された。そのため、私たちは自分の命を自分が支配しているとは考えられなかった。自分の命を終える権利もなかった」。

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➢ 832
社会状況がいくぶん好転し、国が抑圧を緩めることができるようになった2000年から、公開処刑の報告は減少した。しかし、公開処刑がなくなることはなかった。2009年12月の普遍的・定期的レビューにおいて、北朝鮮はきわめて残虐な犯罪などにじて、ごく稀に公開処刑がまだ実施されていることを自ら認めた。調査委員会が入手した情報によれば、それ以降も公開処刑は行われている。犠牲者は殺人、麻薬売買、国家財産の窃盗および「人身売買」(自発的脱北者の支援者に対してつけられることがあった罪)などで公開処刑されている。外国映画その他の政治的な物品の密輸者も犠牲者に含まれている。本報告書の脱稿の少し前に、調査委員会は、政治的目的で処刑が行われているらしいとの報告を受けた。この事態は、金正恩が最高指導者の地位を継承し権力を掌握したことと関連性があると思われる。この問題は金正恩に関する疑問を生じ・させる。

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2013年12月、当局は最高指導者金正恩の義理の叔父、張成沢を処刑した。張成沢の死の少し前まで、張成沢は朝鮮労働党中央委員会行政部長であった。処刑は公開されなかったが、これに関する情報は朝鮮国営メディアにより内外に伝えられた。また、報告によれば、多くの国民が、政府による処刑およびその理由の説明会に強制的に出席させられた。北朝鮮自身の説明によれば、国家安全保衛部の特別軍事法廷は張氏が「敵らと思想的に同調し、わが共和国の人民主権を転覆する目的で国家転覆陰謀行為を敢行した」として有罪宣告している。判決では「凶悪な政治的野心家、陰謀家であり、万古の逆賊として非難した」と報告されている。死刑判決が出されたのは張氏の逮捕からわずか3日後であった。朝鮮労働党政治局での会議での逮捕映像が、北朝鮮のテレビ局で放映された。最高指導者金正恩が議長を務めた政治局拡大会議の場での手続の公平さは疑問である。この報告は判決の前に行われ、張氏が「不可解な思考により犯罪を犯し」、「党および革命に多大な害を与えた」とすでに結論づけていた。

ICCPR第6条(4)項が定める弁明あるいは減刑を求める権利およびICCPR第14条(5)項が定める刑罰にじて上訴する権利に違反して、死刑は特別軍事法が言い渡した直後に実行された。調査委員会が知ったところでは、張成沢の裁判および処刑は、北朝鮮自身の説明に基づけば、国際人権法に違反する要素が多数ある。

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国の最高幹部に対してさえこのような違反が行われるのであれば、一般国民に適用される法律と司法の基準がどのようなものであるか想像に難くない。

調査委員会はまた、朝鮮労働党および人民保安省で張成沢の側近だった人物たちが処刑されあるいは失踪したという報告も受けている。公開処刑の犠牲者の中には、張成沢が部長を務めていた朝鮮労働党行政部の最高幹部もいた。2013年11月、行政部の第1副部長リ・リョンハおよび行政部副部長チャン・スギルが国家安全保衛部特別軍事法廷の判決により処刑されたと報告されている。この報告は、朝鮮労働党中央委員会政治局拡大会議で「張成沢を取り除き、その一党を粛清することによって、党内に新しく芽生える危険極まりない分派的行動に決定的な打撃を加えた」と述べたことと一致する。張成沢の死刑判決では、特にリ・リョンハとチャン・スギルを「側近」としている。同じ・方向で、2014年正月の最高指導者金正恩による新年辞は、党は「党に巣食う分派主義者を排除するための断固たる措置を取った」と述べている。

調査委員会は、北朝鮮の各地で2013年8月、10月、11月に実施された一連の公開処刑の報告を受けている。犠牲者の多くは外国映画の配信およびポルノの配布により処刑されたと報告されている。報告があった処刑の大半は金正恩の妻、李雪主のポルノ関連スキャンダルの未確認の噂を国際メディアが広めた後に実施されたと報告されている。この噂に対応して、北朝鮮当局は国民に対し、噂を相手にしないよう警告し、ポルノ文書や外国映画を含めた「反社会主義物」の取締を強化した。

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2010年初め、失敗した2009年の通貨改革に関与した多くの担当者が処刑された。処刑が実施された当時、金正恩は衰弱していた父金正日から国事を徐々に引き継いでいた。韓国統一研究院の報告を含めた証言によれば、犠牲者の一人は、通貨改革実施時の朝鮮労働党中央委員会計画財政部長、朴南基であった。朴氏は、処刑されたと報じられた後は姿を見せておらず、金正恩を議長とする朝鮮労働党中央委員会政治局の拡大会議の場で「すべての世代にとっての裏切者」と非難された。このことから報告の正しさが裏付けられた。

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秘密聞取調査で、複数の証人が他の最近の公開処刑を調査委員会に証言した。

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(b)抑留場所での処刑

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調査委員会が知ったところでは、北朝鮮では抑留場所で多数の処刑が実施されている。

裁判所の宣告による処刑も中にはある。それ以外の場合は、裁判や司法命令によらずに即決処刑が実行されているが、これは規律および施設規則の保持が目的である。収容施設の全員が処刑に立ち会わされるのが通常である。これは、恐怖を覚えさせ収容者の服従を促進することが狙いと見られる。

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政治犯収容所および通常刑務所の収容者は秘密処刑されやすかった。基本的人権はないとみなされ、政治犯収容所の収容者の場合は、外界との接触を絶たれていた。収容者の殺害は隠蔽がきわめて容易であった。遺体が家族に返されることはなかったからである。調査委員会は、収容所および取調拘置施設での秘密即決処刑にじて信頼できる直接体験報告を入手している。

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1997年には、政治的犯罪者を対象とした秘密処刑が、同年末に閉鎖された平安南道大興の通常刑務所で実施されていた模様である。毎週、3人から5人の犠牲者が夜間または早朝に刑務所主棟から1.5キロ先の場所で射殺された。

どじらの秘密処刑も、1997年の金正日の指令に関連すると考えられ、この指令では、「精神を病んでいる」すべての者を除去するという安全措置が指示されていた。

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被害者はシャベルで自分の墓穴を掘らされてから他の担当者が後頭部をハンマーで殴って殺害した。アン・ミョンチョル氏によれば、収容所近くの山は秘密処刑に使用されており、夜には射撃の音が聞こえることもあった。また、このあたりでの建設作業中に死体が見つかったこともある。

6.人体実験

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調査委員会は、把握した疑惑にじて調査した。この疑惑は、政治犯収容所の収容者が化学および生物兵器の効力試験として国が実施した人体実験により故意に殺害されたという内容である。障害者用の閉鎖病院でも人体実験が行われたという同様の疑惑がある。

➢ 837
調査委員会は、かかる重大疑惑の真実を確認するために、特別の措置が必要であると考えている。本報告書の作成完了の時点で入手していた情報では、調査委員会は人体実験が実施されたとの確証は得ていない。調査委員会が定める厳格な証拠基準に適合するさらなる証拠が必要である。しかし調査委員会は、将来の調査および検討のため、この疑惑を記録しておく。

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7.調査委員会の主な調査結果

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調査委員会が把握したところでは、北朝鮮の警察及び治安部隊は、深刻な人権侵害に相当しうる組織的な暴力と処罰を利用している。これは、現在の政府の体制やそれを支える思想に対するあらゆる反抗に対し先手を打って阻止すべく恐怖の雰囲気を醸成するためである。北朝鮮の国家構造は最終的には恐怖で維持されている。関係する当局及び当局者が責任を問われることはない。不処罰がまかり通っている。

➢ 839
拘束、処刑及び失踪に関わる北朝鮮における深刻な人権侵害の特徴は、大規模な治安組織のさまざまな部門を高度に中央集権化して調整することで実行されている点である。国家安全保衛部、人民保安部、及び朝鮮人民軍保衛司令部が、恒常的に人々を政治犯罪に問い、恣意的に逮捕する。これは、国際法ばかりか北朝鮮の法律の要件にも違反している。その後典型的に、外部との接触を断った状態で長期間拘束され、家族には安否も所在も知らされない。 このため政治犯罪に問われた者は強制失踪の被害者となる。容疑者を失踪させることがこのシステムの計画的な特徴であり、国民に絶対的服従心を示さない者はいつでも当局のみが知る理由で失踪させられるという恐怖を植え付ける役割を果たしている。

➢ 840
拷問も、北朝鮮の尋問プロセス、特に政治犯罪に関わるケースにおいて認められる特徴である。容疑者に圧力をかけて自白させ、また他者を告発させるため、飢餓及びその他の非人道的な状態での拘束も意図的に行われている。

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➢ 841
重大な政治犯罪に関わったことが判明した者は公判や司法による決定なしに、政治犯収容所(管理所)に「失踪」させられる。そこで監禁され、隔離される。死亡した場合でも家族にその安否が知らされることはない。過去には、連座制の原則に則り、近親者(祖先を含む三代まで)が犯した政治犯罪のために、当局によって家族全員が政治犯収容所に送られることが通常であった。現在もこのようなケースが起こってはいるが、過去に比べると減っているようである。

➢ 842
政治犯収容所の収容者に対して行われた筆舌に尽くしがたい残虐な行為は、20 世紀に設立された全体主義国家の収容所の恐ろしさと類似している。北朝鮮の政治犯収容所では、計画的な飢餓、強制労働、処刑、拷問、強姦、並びに処罰、強制堕胎及び嬰児殺しによって執行される生殖に関する権利の否定を含む性的暴力通じて、収容者は徐々に排除される。調査委員会は、この 50 年間に数十万人の政治犯が政治犯収容所で死亡したと推定している

➢ 843
北朝鮮当局は政治犯収容所は過去も現在も存在したことが無いと主張し、政治犯収容所が位置する地域への部外者のアクセスを否定しているが、元看守、収容者及び近隣住民の証言によって、この主張は虚偽であることが明らかとなった。衛星画像からも政治犯収容所制度が依然として運営されていることが証明されている。政治犯収容所及び収容者の数は死亡や一部釈放のため減っているが、現在も 4 カ所の大規模政治犯収容所及び初期の第5収容所の後身である拘置施設に 80,000~120,000 人の政治犯が現在も拘束されているとみられる。

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➢ 844
深刻な侵害は、一般収容所制度においても行われている。これは、一般収容所(教化所)とさまざまなタイプの短期強制労働拘禁施設から成る。収容者の大多数は公判もなしに、又は国際法で定められた適正手続き及び公正な裁判の保障を尊重しない裁判に基づいて収容されており、恣意的な拘束の被害者となっている。さらに、多くの一般囚人は実際には政治犯であり、国際法に適合する実質的な理由なしに拘束されている。一般収容所の収容者は組織的に、計画的な飢餓及び不法な強制労働に晒されている。看守及び収容者仲間による拷問、強姦、その他残虐行為が広く行われ、処罰を受けることもない。

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国家政策として、当局は政治犯罪及び多くの場合重犯罪とは言えないその他犯罪を罰するために、公判の上又は公判なしに、公開又は秘密裏に処刑を行っている。公開処刑を定期的に実施する政策は、一般国民の中に恐怖を植え付ける役割を担っている。

1990 年代には公開処刑は非常に一般的だった。2000 年以降はそれほど一般的ではなくなった。しかしながら、現在も引き続き実施されている。本報告書の脱稿直前、政治的な動機による公開処刑の件数が急増したようである。

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